日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.6.29「ただ、信じなさい」

Posted on 2019. 7. 1, 牧師: 藤田 穣

聖書 ルカによる福音書8章43~48節
  08:43ときに、十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえない女がいた。 08:44この女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れると、直ちに出血が止まった。 08:45イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。 08:46しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言われた。 08:47女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で話した。 08:48イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」
 
  ハンセン病による家族被害の補償が熊本地裁で認められた。ハンセン病患者の隔離政策が家族に対し差別を生んだ。ある家族は、父親が隔離された後、母親が父親の病気を理由に勤め先を解雇され、生活が困窮を究めた。そのうえ学校で、掃除の時に雑巾を絞ることが許されず、雑巾を投げつけられるなど差別をうけた。
  6月22日は、ハンセン病、らい予防法による被害者の名誉回復及び追悼する日でした。明治時代以来、患者を療養所に強制的に隔離してきた「らい予防法」が廃止されてから20年余り。療養所を出て社会復帰を果たした人もいます。ところが、いま、自由を手にしたはずの元患者たちが再び療養所に戻ってくる事態となっています。何が社会での生活を阻んでいるのでしょうか。
  ハンセン病は細菌による感染症です。でも今は治療薬があり治る病気です。しかし、治療薬がなかった時代には手足の変形や外見が変わるといった後遺症のため、患者たちは差別や偏見にさらされてきました。効果的な治療薬が開発されたあとも強制隔離政策は改められることなく、平成8年までおよそ90年間続きました。その後、国の政策によって人権を侵害されたとして元患者たちが熊本地方裁判所に起こした裁判で、国は全面的に敗訴し、控訴を断念して謝罪。新たに補償を行う法律がつくられました。当時、全国の療養所に暮らしていた入所者は4400人余り。平均年齢は74歳を超えていました。多くの人はそのまま療養所に残る道を選びましたが、これが最後のチャンスだと新たな法律が施行された前後には300人を超える人が社会復帰を果たしました。
 ところが、いま、再び療養所に戻ってくる人が少なからずいることがわかってきました。その数は、平成での10年間に少なくとも110人余りに上っています。深刻に受け止めなければならない数字です。
 ある78歳の男性は、去年、東日本の療養所に再入所しました。16年前に社会復帰し、働けるうちは働きたいとタクシーの運転手をしていました。しかし、ハンセン病だったという理由で解雇されます。裁判で勝っても、国が謝罪しても世間の差別や偏見は簡単にはなくならない、そう実感したと話します。足腰が弱くなり、ひとりでの生活が難しくなったときに選んだのは、再び療養所に戻ることでした。老人ホームへの入居も考えましたが、病歴が明らかになることをおそれ、誰にも相談できませんでした。男性には頼れる家族はおらず、保証人を頼めるあてもありません。結局、差別や偏見をおそれ、社会で普通に暮らすという願いを手放さざるを得ませんでした。
  退所者への調査で、現在困っていることについてたずねたところ、①ハンセン病の病歴を明かして医療や介護を受けづらい、②自宅での生活が難しくなったときの居場所、➂差別や偏見などがあげられました。多くの人が何らかの後遺症を抱えています。熱さや痛みに気づかずやけどや怪我をしやすい、足裏の感覚がないため歩くときのバランスが悪く傷ができやすい。こうした後遺症を理解してもらったうえで、医療や介護を受ける必要がありますが、かつての病歴を明かせないというのです。
  すべての法的な差別の壁はなくなりました。しかし、世間の差別の壁はなかなかなくなりません。
社会の一員として生活したい。その当たり前の願いを実現するため、私たち自身が差別と偏見を無くす努力を絶えず続けていかなければならないと思います。
「NHK時論公論 6月22日(堀家 春野 解説委員)より引用」

  今日の聖書箇所の女性は、別の病気ですが、律法の規則のため、長年にわたり、病気と偏見に苦しんで来ました。この8章には、4つの奇跡物語りがあります。主イエスが、海の嵐を鎮めた奇跡、ゲラサ人が悪霊を追い出された奇跡、この12年出血の止まらない女が癒された奇跡、そして、ヤイロの娘が死者の中から甦らされた奇跡です。この4つ奇跡に共通しているのは、夫々の人が主イエスに信頼したときに、主はその信頼を信仰として受け止めて下さったのでした。

  ここに、12年間出血が止まらない女性がおりました。治療してもらおうと12年間、医者に診て貰ったのですが、誰にも治せなかったばかりか、全財産を使い果たしてしまったのです。12年間、大変長い時間ですね。しかし、それは徒労に終わりました。
  当時のユダヤの国では、女性の生理さえ、不浄とされておりました。旧約聖書のレビ記15章19節、「女性の生理が始まったならば、七日間は月経期間であり、この期間に彼女に触れた人はすべて夕方まで汚れている。」とあり、出血の止まらない不正出血の女性に対して、25節、「生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。」 この期間、12年間です。この女性が触る者は、人であれ、物であれ皆汚れるとされたのです。出血が止まったとき、  30節、「祭司は贖罪の献げ物を主の御前にささげ、彼女の異常出血の汚れを清めるために贖いの儀式を行う。」こうして普通の生活に戻るのである。
  この不正出血の女性は、人前に出られない。多分、この女性は、イエスの娘よという呼びかけ方、30歳位と推察される。病気ゆえに、結婚生活も破綻し、離縁され、孤独の中で病気と闘わらざるを得なかったのでしょう。しかも、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえなかったのです。並行のマルコ5章26節では、「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。」とあります。それでも、彼女は癒されたいとねがっておりました。
  彼女の耳に、カファルナウムで多くの病人を癒したイエスさまの噂が入って来ました。「もしかしたら、自分の病気も癒されるかもしれない。」、彼女が堂々とイエスさまの許にくることはできません。人混みはご法度です。汚れた彼女に触れる者は汚れ、清める必要がある、レビ記の規定の通りです。重い皮膚病、ハンセン氏病の患者は、「自分は汚れている。近づかないで下さい」と叫びながら通りを歩かねばならなかったとあります。
彼女は、多分、ベールで顔を隠してカファルナウムに急いだのです。丁度、イエスは、会堂司ヤイロの家に急いでいたのでした。それは、彼の12歳の娘が死にかけていたからです。イエスの周りには、群衆が押し寄せていました。12年不正出血の女性は、この群衆に紛れ込んでイエスに近づきました。人混みをかき分け、かき分けて、イエスさまだと思われる方の衣の裾の四隅にある房の一つに触ったのです。汚れた者が衣の房に触ることは、イエスご自身の衣を汚すことになります。それで、彼女は、イエスご自身からできるだけ距離のある衣の裾の房に触って、イエスの汚れをを最小限度にし、「癒しの恵みを分けて貰おう」と考えたのでしょう。手が衣の裾の房に触れた途端に、出血が止まりました。癒されたのです。彼女は、来たとき同様、こっそり群衆に紛れて帰るつもりだったでしょう。癒しを、恵みをかすめ取ったと言われても仕方のない行為です。
  しかし、この小さな行為にイエスが気が付きました。45節以下、イエスは、「わたしに触れたのはだれか」と言われた。人々は皆、自分ではないと答えたので、ペトロが、「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」と言った。しかし、イエスは、「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」と言いました。押し寄せる群衆の圧力の中で、この一人の女のか弱き手がイエスの衣の裾の房を探し当てたのでした。「わたしに触れた者はだれか。」ペトロは、こんな人混みの中で、探すのは無理だと言いました。しかし、イエスは、私に触った者はだれか。と迫ります。周囲の人は、皆自分ではないといった。暫くして、女は隠し切れないと知って、震えながら進み出てイエスの前にひれ伏したのです。そして、イエスの衣に触った訳と、触るとたちまち治ったことを告白したのです。彼女の心境は悪いことをした犯罪者そのものでした。彼女はイエスの衣を汚した者として、イエスからきついお叱りを受けるものと思ったのです。しかし、観念して一切をイエスに委ねて告白したのでした。
  その時、イエスは云われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」
  この娘の信仰とは何か。E・シュヴァイツアーは、「信仰というものは、慣習の壁を踏み越える思い切った信頼ともなり、同時にまた大変内気な信頼ともなる。」と述べています。
 ルカ福音書7章36~50節 香油を捧げた罪の女
  36さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」
そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。今日の箇所と全く同じ言葉です。このことを通して、主イエスは、罪人と共に食事をしない習慣を破り、彼女の香油を無駄にした行為を愛と認めたのです。ベタニアのマリアの記事では、ルカ福音書14章08節、この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。」と、罪の女の行為を正当化し、信仰に昇華させてくださったのです。
  ここでは、イエスは、律法において不浄とされた女の秘めている深い悲しみを受け止め、汚れを癒し、清浄な体であることを公に認めさせる最愛の役目を果たすと同時に、彼女のイエスに対する切実な告白を信仰と認めたのです。
  イエスの救いは、この女の全人的救いである。体の癒しと共に魂の救いを確証させるのがイエスとの救いである。衣の裾の房に触れて、直ちに出血が止まった女は、イエスとの対面を促され、己を切実に告白し、そこで信仰による救いの確かさと神の平安を得たのである。
  この不正出血の女は、頼るべきものを何も持たないままにイエスに縋った。その信仰は多分に御利益的である。イエスの着物の裾に触れることにより、霊験あらたかな力を期待する迷信的要素がたかい。そのような間違った信仰であるにも関わらず、イエスは、直ちに癒され、彼女の行為を受け入れたのでした。
  女がイエスの衣の裾の房に触れたとき、イエスから力が出た。イエスの言葉や身振りによらず癒しが起こった。これは、女の一途の思いのため起こったことではなく、イエスに宿っている神の力によるものです。イエスを通して、神の業が働いたのである。
  この女は、イエスの前に呼び出されて対面し、そこで救いの宣言を聴いた時、初めて癒しは完全なものとなったのです。女の迷信のようなイエスへの信頼は、勇気をもってイエスと対面し救い主の足元にひれ伏したとき、信仰のレベルに高められたのです。
  女が背負っていたマイナスの生は、イエスの立ち合いの下、皆の前ですべてありのままに言い表され、回復された。過去の半生にわたるマイナスの記憶がイエスによって受容され、肯定され、祝福されたのでした。
  この女の信仰、「信仰」とそういわれた女は驚いたことであろう。どこに信仰があったのか。私は、ただ、恐れただけ、苦しかっただけ、この人以外にないと縋っただけではないか。自分を救いうるようなものは何もない。力尽きかかったときに、手を伸ばしただけです。
  すべては、自分の力ではない。信仰もこちらの力ではない。向こう側、神さまの側の出来事なのです。神さまの側から、語り掛けて下さり、私たちを引き上げて下さった時にのみ信仰が生まれるのです。
  信仰とは、私の前に、私の業を口で言い表すことだということを示されたのです。
  宗教改革者カルヴァンは、「この女の信仰には悪徳も誤謬も宿っている」悪徳と書いています。誤りがあると云います。うっかり、この女の信仰の猿真似をしては駄目だというのです。何を警戒したのか。
  教会の信仰の歴史の中に、間違った信仰が生まれたことがある。教会が,聖人をほめ讃えるようになる。その聖人の功徳に縋ると、病気が治る、怪我をしないで生きていくことが出来ると、その聖人の徳を幸福の保障として用いるようになる。その危険性がこの癒しには含まれるのだと。
 日本でもそうですね。お地蔵さんに触ると痛みがなくなる。そんな信仰があります。これは誤りである。悪徳である。御利益信仰を戒めるのです。
  この女の信仰とは何か。カルヴァンは、大切なことは、どんなに悪徳や過ちを含んだものであっても、この女の願いをイエスがお聴きになったこと、主が受け入れてくれて、信仰と呼んでくださったことだ。
  
   しかし、イエスの深層にある思いは、何でしょうか。ルカ福音書5章31節以下、イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。 わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」
  イエス玉が来られたのは、私たち罪人なる人間の神の許への回復です。ルカ15章10節以下に放蕩息子の記事があります。己の罪のゆえに、親元を離れてさまよう息子がいつ帰って来るのか待ちわびる父親の姿があります。父親は神さま、息子は私たち人間です。罪のゆえにエデンを追われた人間を神は探し求めています。人が悔い改めて、神さまのもとに立ち帰ることを願っております。神は、イエスさまを遣わして罪成る私たちを招き、回復させ、神さまの許に立ち帰ること、神の支配に服することを願い続けているのです。イエス・キリストにおける神の回復、それがイエスさまの使命であり、私たち、教会に託された使命であります。