日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.7.18「死からの救い主」

Posted on 2019. 8. 4, 牧師: 藤田 穰

聖書 ルカによる福音書7章11~17節
  07:11それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちや大勢の群衆も一緒であった。 07:12イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。 07:13主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。 07:14そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。 07:15すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。 07:16人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。 07:17イエスについてのこの話は、ユダヤの全土と周りの地方一帯に広まった。

  京都アヌメーション放火殺人事件
やりきれない別れがある、不条理な死に巻き込まれた者を持つ遺族の悲痛な叫びが聞こえてくる。京都アニメーションスタジオの放火殺人事件の残忍さを思う。何を妄想して恨みを抱いたのか。こんな形の憎しみがあろうか。自分のやることの重大さを覚悟していただろうか。これだけの甚大な被害を犯人は予想していたのだろうか。それにしては、犯人がガソリンの危険・威力を知らなかったふしがある。バケツで10Lのガソリンを従業員にかけ、床にまき、自分はガソリンに触れずに火をつけた積りだろうが、犯人は、衣服に着いたガソリンや揮発したガソリンの火によって全身火傷の重篤な状態にある。
  しかし、まかれて火をつけられたガソリンは瞬時に爆発し、建物の構造上の問題もあったが1~2分も経たないうちに黒煙は3階建ての建物を包んだ。3階から屋上に通じる階段に19人の人が倒れていた。屋上への扉は鍵がかかっていなかったのに、屋上に逃げのびることが叶わなかった。真っ暗な煙の闇の中、出口を見出せず、ほとんどの人の死が一酸化炭素中毒であった。35名の若い生命が失われた。こんな残酷な犯罪は許されない。全世界の人々に、夢を与えてくれていた京都アニメーションが何故、狙われたのか。犯人が重篤なため今は解明できない。しかし、それでは赦されまい。
 最近の犯罪は、不条理の闇の中にある。神さまは何を考えておられるのだろうか。この時代に、主イエスがおられたならば、何を思い、どんな言葉を発するだろうか。しかし、今は、慰めの主がご遺族の悲しみに寄り添うてくださることを願う。
  
ナインの若者の死
カファルナウムの町で百人隊長の僕を癒したイエスは、故郷のナザレの南6kmにあるナインの町に行かれた。弟子たちの他に大勢の群衆が一緒でした。彼らは、イエスの教えを聞き、その御業に期待してついてきたので.した。
  イエスの一行がナインの町の門に近づくと大勢の人の葬儀の列にであった。ユダヤでは、墓地を町の中に設けなかったので、町の外の墓地に向かう葬列でした。当時のユダヤでは、死者をその日のうちに墓に葬るのが普通だったと言われます。
  喪主は未亡人の母親で、彼女は一人息子を失ったのでした。母一人、息子一人で支えつつ生きてきたが、頼りの息子に先立たれたのでした。母親が悲しむ間もなく、遺体は棺に入れられ、墓に移されてゆくのです。彼女の悲しみはあまりある。大勢の隣近所の人たちが、母親に付き添っていました。
  イエスは、この母親を見た。瞬時にその状況を理解したのでした。ごく初期の神学者の言葉を加藤常昭先生が引用しています。「私共の神は、そのすべてが耳だ。そのすべてが目だというのです。神の全存在が耳になっており、目になっている。それほど、見ること、聞くことに集中し、鋭くなっている。」と記します。詩編113篇5~6節、「わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる」とある。主は、天の低きに下って、身を屈めて地にある私たちをご覧になる。ルターは、主は、至高の神であるから、上を見ることはなく、並ぶべきものはいないから横見ない。ただ、地にある私たちをご覧になり、案じておられるのだ。イスラエルの神は、このような神である。
  このイスラエルの神に対し、ギリシャのストア哲学では、最高の神とは、「不動の動者」であると云います。それは、自らは動かず他を動かす。自らは影響を受けず他に影響する。これが神だと云います。神は他から影響をうけるようなちっぽけな方ではないと云います。
  しかし、このイスラエルの神、そして、父なる神から遣わされた神の子イエスは、全身を動かしてこの悲しむ一人の母親に近づきます。イエスはこの母親を見て、憐れに思い、とあります。この憐れに思う、このギリシャ語「スプランクニゾマイ」は、同情するとも訳されますが、この言葉の「スプランクナ」は内臓、はらわたを意味します。ですからこの憐みは「はらわたが痛む」という心の激しい痛み、断腸の思いです。悲しむ母親をみて、ご自分の「はらわたが痛む」ような激しい憐みに駆られたのです。人の憐れみを超えた主イエスの憐れみが示されます。
  このスプランクニゾマイ(はらわたが痛むような憐み)は、ルカ15章の放蕩息子のたとえでも用いられています。家に帰って来た放蕩息子をまだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。(20節)この憐れに思うが「はらわたの痛む」ような激しい憐み、愛である。その結果の表現が喜びであります。この父親は、「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。(15章24節) この父親は神さまであり、息子は私たち人間です。ユダヤの父親が走ることはないという。しかし、神さまは走り寄ってくださる、近づいてくださるのだ。それだけ、迷い出て、死んでいたような息子(人間)を憐み、生き返って自分の許に戻ってきた息子に対する喜びを爆発させる。神から離れていた、神を知らずにいた、神の前に死んだ世界に住んでいる私たちを憐れんでくださる。神は、関係の回復、神の許に戻り、生き返り、生きることを切望しておられるのだ。
  神さまは、苦しみに、悲しみに、その困窮に、はらわたをえぐられるような心の痛みを覚え。近づいてくださる。
  
  ナインの若者の甦り
  主イエスのその思いは律法の規定を超える。ユダヤの律法は、「死体に触れてはならないと」と厳命する。しかし、イエスは、命令を破り、棺に手をかける、わが身を顧みない。神の独り子が、人間となって、悲しむ者の「死からの救い」に立ち上がってくださったのだ。  
  イエスは、「もう泣かなくともよい」と言われた。母親が泣いていたのか?ユダヤの葬列には泣き女が付き添ってる。この言葉は、母の涙を止めるだけでなく、泣きわめく女たちを静止するものです。
 慰めを得ることのできない悲しみが止められたのです。主イエスは、棺に手をかけられた。現在のような棺を考える必要はない。箱型のものとしても、まだ、棺の蓋は閉じられていない。担架のようなもので運ばれていたとも考えられる。
  イエスは、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、起きなさい」と言われた。すると、死んだ若者は起き上がってものを言い始めた。
  「起きなさい」という言葉によって、起き上がるだけでなく、若者は生き返った証拠にものを言い始めたのでした。
  主イエスは、その深い愛、憐みの中で、死の世界に逝った若者を生かして母親の許に帰されたのでした。死を境として断ち切られた母と子の絆を再び取り返してくださったのです。
  死者の甦り、福音書にはこのナインの若者、会堂司のヤイロの娘、そして、マルタとマリアの弟ラザロの出来事があります。
  旧約聖書、列王記上17章17節以下、シドンのサレプタのやもめの息子の死に対するエリヤの祈りによる甦りの出来事があります。
  その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。0 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」 彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。(17~24節)
また、列王記下4章18節以下、エリシャによるシュネムの婦人の息子の 甦りの出来事がある。
  
  この人たちやヤイロの娘もナインの若者も、ラザロもひとたび生き返ったが、不老不死の復活を得たのではない。その人生に死が無くなったのではない。この物語の主人公、ナインの若者は、時を経て死んだ。しかし、その死は、1回目の死とは異なる。彼は、母と共に人生を生き、やがて、母の死をみとることができたであろう。そこに、主イエスの顧みがある。彼自身の二度目の死には、主イエスキリストを思い、神の憐みの中で目を閉じることが許されたであろう。キリストの出現以来、クリスチャンは神によって祝福された死を迎えることを約束されたのだ。

 16節 人々は皆恐れを抱き、神を賛美して、「大預言者が我々の間に現れた」と言い、また、「神はその民を心にかけてくださった」と言った。大預言者は、死者を生き返らせたエリヤであり、エリシャである。その再来である。この後の箇所で、バプテスマのヨハネの『来るべき方(メシア・救い主)は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』の質問に、「死者は生き返り、」(7章23節)と言及している。神は、その民を顧みて下さった。(口語訳)
  群衆は神を賛美した。この「心にかけてくださった」(エピスケプトマイ)は、 神が振り返ってくださった、今まで、向こうを向いておられた神が再び私の方に振り返ってくださったである。詩編74篇9節、「74:09わたしたちのためのしるしは見えません。今は預言者もいません。いつまで続くのかを知る者もありません。」神さまを見失い、預言者さえ絶えてしまった。しかし、今、ここに、「大預言者が我々の間に現れた」のです。神の顧みをうけるようになったのです。「暗闇と死の陰に座しているものたちに高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」(ルカ1章79節) 主イエスによって、死者と生者の立ち切られた絆が結ばれたのでした。死者の許に行く者にも希望が与えられます。讃美歌1489番は、葬儀の時によく歌われます。
  きよき岸辺にやがて着きて、天つみ国についに昇らん その日数えて 友もうからも 我を待つらん  やがて会いなん 愛でにしものとやがて会いなん
死の陰を歩んでいたナインの若者は命を得たのでした。そして、神の救いを得たのです。私たち、信仰を持つ者にとって、神を失っていることが死であり、神を得ていることが命である。イエス・キリストが私たちとの人生を共に歩み、支えてくださることが、私たちの命の根源であろう。