日本キリスト教団 東戸塚教会

聖書 使徒言行録15章22~29節

  15:01ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えていた。 15:02それで、パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい意見の対立と論争が生じた。この件について使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者がエルサレムへ上ることに決まった。 15:03さて、一行は教会の人々から送り出されて、フェニキアとサマリア地方を通り、道すがら、兄弟たちに異邦人が改宗した次第を詳しく伝え、皆を大いに喜ばせた。 15:04エルサレムに到着すると、彼らは教会の人々、使徒たち、長老たちに歓迎され、神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した。 15:05ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った。 15:06そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。 15:07議論を重ねた後、ペトロが立って彼らに言った。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。 15:08人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。 15:09また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。 15:10それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。 15:11わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」 15:12すると全会衆は静かになり、バルナバとパウロが、自分たちを通して神が異邦人の間で行われた、あらゆるしるしと不思議な業について話すのを聞いていた。 15:13二人が話を終えると、ヤコブが答えた。「兄弟たち、聞いてください。 15:14神が初めに心を配られ、異邦人の中から御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。 15:15預言者たちの言ったことも、これと一致しています。次のように書いてあるとおりです。 15:16『「その後、わたしは戻って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。その破壊された所を建て直して、
元どおりにする。 15:17-18 それは、人々のうちの残った者や、わたしの名で呼ばれる異邦人が皆、主を求めるようになるためだ。」昔から知らされていたことを行う主は、こう言われる。』 15:18 15:19それで、わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。 15:20ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと、手紙を書くべきです。 15:21モーセの律法は、昔からどの町にも告げ知らせる人がいて、安息日ごとに会堂で読まれているからです。」 15:22そこで、使徒たちと長老たちは、教会全体と共に、自分たちの中から人を選んで、パウロやバルナバと一緒にアンティオキアに派遣することを決定した。選ばれたのは、バルサバと呼ばれるユダおよびシラスで、兄弟たちの中で指導的な立場にいた人たちである。 15:23使徒たちは、次の手紙を彼らに託した。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。 15:24聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。 15:25それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。 15:26このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。 15:27それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。 15:28聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。 15:29すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」  

  アンティオケ教会には、多くの外国の人がいましたが、パウロやバルナバの教えを守り、ユダヤ人も外国人も仲良くしておりました。そこに、エルサレム教会のユダヤ人がやってきて、アンテイオケ教会の外国人に言いました。「皆さんはイエス様を信じて救われたと信じていますが、それだけではだめです。ユダヤ人と同じ儀式を受け、決まりを守らなければ、神さまに救っていただけません。」「イエス様を信じる人は、誰でも救われる」と伝えていたパウロとバルナバは、「それは、違います」と反対しましたが、彼らは聞いてくれません。

  これは、「私たちは、どうしたら救われるのか」というとても大切な問題です。パウロとバルナバは、エルサレム教会に行って、教会の指導者である、ペトロやヤコブなど話し合うことにしました。

  エルサレム教会に着いたパウロとバルナバは、教会の指導者たちを前に、「自分たちの伝道で、神さまが、沢山の外国人を救ってくださったことを話しました。すると、ユダヤ人の決まりを守るのに熱心なファリサイ派出身のクリスチャンが、「外国人がイエス様を信じるだけで仲間になるなんて納得できません。私たちユダヤ人と同じ儀式を行い、ユダヤ人の決まりを守らせるべきです」と云いました。パウロとバルナバは、「その必要はありません。イエス様をしんじるだけで救われるのです」「いいや、決まりをまもらせなければ認めない」という人たちの間で、喧々諤々、意見がまとまりません。

  すると黙って聞いていたペトロが立ち上がりました。「皆さん、わたしも神さまに導かれて、外国人のコルネリウスにイエス様のことを伝えました。コルネリウスも家族もイエス様を信じて救われ、聖霊を受けました。私たちも同じでしょう。決まりをきちんと守ったから救われたのではないでしょう。イエス様を信じたから救われたのです。外国人も同じでしょう。神さまは、外国人をさべつすることなく、イエス様を信じる人は誰でも救ってくださるのです。」こう言いました。

  みんな、シーンと黙り込みました。誰も反対をしません。最後に、指導者の一人ヤコブが言いました。「聖書にも神さまが世界中の人を救いに招くとあります。神さまの御計画を邪魔してはいけません」その通りだと、皆が納得しました。

  エルサレム教会の人達は手紙を書いて、パウロとバルナバに渡しました。「アンテオケ教会の皆さん、あなた方に心配をかけてごめんなさい。私たちは神さまに導かれて話し合いました。どこの国の人も、イエスさまを信じるだけで罪から救われ、神の子とされます。皆さんの上に神さまの祝福がありますようお祈りします」

  手紙を読んだアンティオケ教会の外国人クリスチャンは、大変喜びました。

 神さま、イエスさまを信じるだけで神さまの子供にしてくださる恵みを感謝します。暑い夏が続きますが、私たちの健康をお守りください。イエス様のお名前によって感謝します。 ア^メン

                   (子どもの礼拝 終了)

 

 生まれたばかりのアンティオケ教会に問題が起こりました。151節 ある人々がユダヤから下って来て、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と兄弟たちに教えたのです。ユダヤから来た人々が、アンティオケ教会の兄弟たちに教えたとありますから、彼らもクリスチャンです。ユダヤから下ってきて、それは、本家エルサレム教会から来た、ユダヤ人クリスチャンです。彼らが何と言ったか。「キリストを信じただけでは駄目で、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」というのです。アンティオケ教会を指導していたパウロとバルナバは、アンティオケの異邦人・シリア人に「イエス・キリストを信じれば救われる」と伝道しておりました。

 ここで「割礼を受けなければ」とありますが、「割礼」はモーセのおきてで定められております。割礼はユダヤ教徒である肉体的しるしでした。ユダヤ人がユダヤ教徒になるときの条件の儀式にあります。これは、男性に対する儀式で、女性にはそのような儀式はありません。当時の社会は、男性社会ですから、女性と子どもは、人間の数にさえ数えられなかったのです。

 ユダヤ人は、ユダヤ人の家庭に生まれただけでは、神の民にはなれないのです。割礼を受けて神と契約を受けなければ、ユダヤ民族の民と認められないのです。彼らユダヤ人からすれば、割礼を受けて神の救いを受ける有資格者にならなければ、キリストの救いの対象にならないというわけです。

 パウロは、「イエス・キリストの救いの前に、モーセのおきては無効である。パウロは、救う価値無き者をも神さまは、キリストの十字架の贖いにより救われると神の恵み、無上の神の愛を説き始めておりました。パウロは、「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ書6章15節)と説いております。

 当然、パウロらとユダヤ人の間に論争が起こりました。これは、誕生したばかりのアンティオケ教会の一大事、これから広く小アジア、ギリシャという外国に伝道しようとしていたパウロにとって、出鼻をくじかれてしまう出来事です。キリスト教の運命が決まります。このままゆけば、初代教会は分裂するしかありません。このことが起こったのは、紀元49年頃のことです。

「パウロとバルナバ他数人の者がエルサレムに上り、使徒たちや長老たちとこの問題について協議することになりました。

 エルサレム教会は、ユダヤ人の教会でしたから、神の選民として割礼を受けた人たちが、クリスチャンになっていました。このユダヤ民族のアイデンティテイを初代キリスト教会は乗り越えられるのか、天下分け目の戦いです。

 パウロたちが、神の導きにおいて、行われた外国人伝道の成果を報告したところ、ファリサイ派からキリスト教信者になった人たちが立って、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言ったのです。

 ファリサイ派の人たちというのは、律法のプロであり、律法生命と考えてきた人たちです。彼らがクリスチャンになるというのは、北森嘉蔵先生の言葉を借りれば、「いわゆるヒヨコが卵から孵化したのちも卵の殻をお尻につけて歩くという譬えがあるが、打破したはずの律法主義という卵の殻がお尻にくっついているわけです。クリスチャンになっても、ユダヤ教徒の卵の殻をくっつけているのです。

 私たち日本人の多くも仏教の殻や神道の殻をつけて歩いているかもしれません。もっと至近な例でいえば、この教会に集うわたしたちも良いにつけ悪いにつけそれぞれの出身教会の殻をつけたまま歩いているのかもしれません。そのことも考えてみる余地があると思います。米国の福音主義という原理主義者は、聖書無謬主義という殻にとらわれて、世界の現実を無視して、イスラエルの都はエルサレムであるとトランプ大統領に、大使館をエルサレムに移させました。

 そして、私たちは生きてゆくなかで、家柄や地位や学歴などの殻をつけて歩いていることが多いのです。幕末の戊辰戦争で功をたてた土佐藩士片岡健吉は、維新以後、明治14年、板垣退助らと自由党を結成。政治活動で、政治犯として捕まり、投獄されました。その時、獄中で便所掃除を命じられたのです。武士である彼にとっては屈辱この上ない事でした。悔しくて悔しくてたまらない毎日を送っていました。彼が独房で聖書に出会いました。イエス。キリストが、「誰が一番偉いのか」と言い争っている弟子たちを前にして、一人一人の汚れた足を洗われる場所を読み(ヨハネによる福音書13章1節~11節)、大いに感動を受けました。出獄後の明治18年高知教会において宣教師ナックスから洗礼を受けクリスチャンになりました。明治23年、第1回衆議院議員選挙以来連続8回当選、明治31年から召天する明治36年まで衆議院議長を務めました。彼は、高知教会でも長老を務めておりましたが、に出席するときは、いつも、玄関に立って教会員の履く草履の下足番をしていました。それが、彼の天職のごとく振る舞いました。彼は生涯、一クリスチャンとして、人を自分よりすぐれた者とするキリストの教えをまもったのでした。

 片岡健吉の信仰の実践は、弟子の足を洗うイエス・キリストのすがたでした。彼にはお尻につけても良い殻がいくつもありましたが、彼がつけようとしたのは、イエス・キリストのみでした。

ファリサイ派の殻をつけたままのユダヤ人クリスチャンは、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張したのです。そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった。激しい論争があった後、それまで、黙って聞いていたペトロが口を開きます。

 7節以下、「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。 人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。 また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」(7~10節) 一件落着です。すると全会衆は静かになり黙ってしまったのです。 ペトロは、ファリサイ派出身の人たちが信仰の生命線と考えていた律法を、「我々の先祖も負いきれなかったくびき」と総括したのです。ユダヤ人である我々さえも守れず、負いきれなかった律法の重荷を異邦人に負わせるのですか」というのです。さらに、「神を試みるのですか」「神が今、新しい道をお示しになったのに、また古い所に戻って、あたかも、神の決断を否定するのですか?」「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。」

ここには、律法の行いと福音への信仰という、「行い」と信仰」が出てきました。「行いによらないで信仰にのみによる、律法によらないで福音にのみよる」という福音の中心真理がはっきり表明されたのです。

 この後、ヤコブが登場します。ヤコブは、イエスの弟です。19節、「わたしはこう判断します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。」これで決まりです。

 使徒たちは、次の手紙をパウロたちに託します。「使徒と長老たちが兄弟として、アンティオキアとシリア州とキリキア州に住む、異邦人の兄弟たちに挨拶いたします。 聞くところによると、わたしたちのうちのある者がそちらへ行き、わたしたちから何の指示もないのに、いろいろなことを言って、あなたがたを騒がせ動揺させたとのことです。それで、人を選び、わたしたちの愛するバルナバとパウロとに同行させて、そちらに派遣することを、わたしたちは満場一致で決定しました。 このバルナバとパウロは、わたしたちの主イエス・キリストの名のために身を献げている人たちです。 それで、ユダとシラスを選んで派遣しますが、彼らは同じことを口頭でも説明するでしょう。 聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。 すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。健康を祈ります。」(2329)   

この手紙の中には、ヤコブが信仰生活の規範として記した29節、「ただ、偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けてください。」が気になる部分です。淫らな行いは分かりますが、偶像に供えて汚れた肉と血と絞め殺した動物の肉は、ユダヤ教徒の条件です。これは使徒指令の汚点とも言われます。しかし、パウロは、「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」(コリント813節) パウロは福音の律法からの自由を確信しつつも、ユダヤ人と異邦人の一致を保つギリギリのものと認めているのです。
 これを読んだアンティオケ教会の人々は、それを読み、励ましに満ちた決定を知って喜んだのでした。