日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.9.1「悔い改めを待つ神」

Posted on 2019. 9. 3, 牧師: 藤田 穰

聖書 ルカによる福音書13章1~9節
 13:01ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。 13:02イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。 13:03決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 13:04また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 13:05決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」 13:06そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。 13:07そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 13:08園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 13:09そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

  神さまの「待つ」、「忍耐」について考えます。
  青のリュウゼツラン
  「数十年に一度しか咲かない」といわれる花が兵庫県内の民家の庭に咲き話題を呼んでいます。 兵庫県小野市に住む小西立子さん(67)の庭に咲いている、「アオノリュウゼツラン」です。南米・メキシコ原産で、「数十年に一度しか咲かない花」として知られています。茎の長さが5mと長いのが特徴で、枝分かれした茎の先端では花が黄色く咲いています。
小西さんが二十歳の時、近所からもらった苗を植えて他の植物と同様に水をやって育てていました。すると今年6月、突然茎が伸び始め花が咲きました。育て始めてから47年後のことでした。 「一生に一度ぐらい花が咲くと言われていますので、一度は花を見たいなという気がありました。感無量です、願いが叶って。」 「やっと咲いてくれてありがとうという感じですね。(子どもが)小学校・中学校・高校・大学と進学していく中で色々なことを思い出します。ずっと一緒に寄り添ってくれたんだなというのがありますね。」(小西立子さん)
 小西さん一家をずっと見つめてきた「アオノリュウゼツラン」。1か月ほど咲いてから子株を残して全て枯れてしまうということですが、次に咲くときは、誰が見ることになるのでしょうか?」

 岸壁の母
 流行歌や映画「岸壁の母」のモデルとなったのは、端野いせ(1899年9月15日 – 1981年7月1日)さんです。石川県に生まれ、函館で青函連絡船乗組みの夫、端野清松と一人娘とともに居住していましたが、昭和5年(1930年)頃に夫と娘を相次いで亡くし、家主で函館の資産家であった橋本家から新二を養子にもらい昭和6年(1931年)に上京します。新二は立教大学を中退し、軍人を志し昭和19年(1944年)満洲国に渡り関東軍に入り、1945年ソ連軍の攻撃を受けて中国牡丹江にて行方不明になりました。終戦後、いせは東京都大森に居住しながら新二の生存と復員を信じて昭和25年(1950年)1月の引揚船初入港から以後6年間、ソ連ナホトカ港からの引揚船が入港する度に舞鶴の岸壁に立ちました。昭和29年(1954年)には厚生省の死亡理由認定書が発行され、昭和31年には東京都知事が昭和20年(1945年)8月15日牡丹江にて戦死との戦死告知書を発行しました。 しかしながら、帰還を待たれていた子・新二(1926年 – )は戦後も生存していたとされる。それが明らかになったのは、母の死の19年後の平成12年(2000年)8月のことでした。ソ連軍の捕虜となりシベリア抑留、後に満州に移され中国共産党八路軍に従軍。その後はレントゲン技師助手として上海に居住。妻子をもうけていた。新二は母が舞鶴で待っていることを知っていたが、帰ることも連絡することもなかった。理由は様々に推測され語られているがはっきりしない。(北國新聞社平成18年(2006年)10月4日から引用)。
端野いせの舞鶴の岸壁に立つ胸中を想う。生きていることを願いつつ引揚者の中に見出せない失望、それを何回繰り返したことか?乱れる胸中を思い心痛む。

聖書に向かう 
 前章12章の最後で、イエスは、ガリラヤにおられ、神の裁きを免れる緊急性を教えておられた。「あなたを訴える人と一緒に役人のところに行くときには、途中でその人と仲直りするように努めなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官のもとに連れて行き、裁判官は看守に引き渡し、看守は牢に投げ込む。 言っておくが、最後の一レプトンを返すまで、決してそこから出ることはできない。」(12章58~59節)
あなたを訴える神の訴訟にあるばらば、裁判を受ける前に和解しなさいと説いておられた。
丁度、その時に大ニュースが飛び込んで来た。ローマ帝国のユダヤ総督ピラトが神殿で礼拝中のガリラヤ人を撃ち殺したというのです。そして、ちょうど、ガリラヤ人がささげた犠牲を献げている最中にガリラヤ人を殺したので、彼らの血が犠牲の動物の血に混ざったということです。
ガリラヤ人が集まっていた主イエスの集会ですので、仲間がエルサレムで殺されたという事件でした。同じ、ユダヤ人でもエルサレムのあるユダヤ地方とガリラヤ湖を中心とするガリラヤ地方の人々には対立がありました。そして、ユダヤ民族の間でも、ガリラヤ人は血の気が多い人たちでした。ローマ帝国からの独立を目指す熱心党の中心地でもありました。
イエスに、このニュースを知らせることによって、熱心党員を弟子に加えているイエスもこの事件の共犯者ではないか、あるいはイエスを反ローマ闘争に誘うものであったかもしれない。
イエスは、報告者たちへ答えることにより、彼らの目を開かせようとしたと思われる。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
主イエスの言葉は、災難や災害を被害者の罪に対する神の罰だとする因果応報をただすものであります。シロアムの塔が倒れたのは自然災害に近い。ヨブの友人エリバスは、「考えてみよ、だれが罪のないのに、滅ぼされた者があるか。」(ヨブ記4章7節)と正しさを主張するヨブに言った。
これ当時のがユダヤ人の考え方した。
 イエスは、災難を受けた人たちに罪がないとはいっていない。それよりも聴衆の「神はガリラヤ人の特定の罪を罰したのだから、この災いは自分たちには降りかからない、関係ない」とする近視眼的な考えを取り除こうとしておられるのです。
 イエスは、更に、エルサレムで起きたもう一つの不幸について、言及する。シロアムの池のほとり、神殿の西の丘のふもとにあった要塞の塔が崩れ18人が死んだ。この人たちはエルサレムに住む人たちより罪が深かったのだろうか。彼らは罰を受けたのか。ユダヤ人は因果応報で罪を犯したから罰を受けたと理解する。しかし、イエスは言われる。そうではない。
この事故は、自然の災害である。「時と災難はすべての人に臨む。人はその時を知らない。魚がわざわいの網にかかり、鳥がわなにかかるように、人の子らもわざわいの時が突然彼らに臨む時、それにかかるのである。」(伝道の書9章11~12節)彼らは不慮の災難に遭ったのだ。彼らは、災難にあわなかった人たちより罪深かったのか。
イエスは、言われた。「あなたがたに言うがそうではない。」原文は、「とんでもない、お前たちに言おう」である。ピラトによって殺されたガリラヤ人もシロアムの塔の崩壊で死んだ人たちも、今、ここにいるあなた方と比べ、罪が重かったということはない。他人が被った災難を見て、自分は彼らよりましだと思うことこそ、神の裁きの対象なのだ。「あなたがたも彼らも同じ罪の状況にある。「あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」原文は、「むしろ、お前たちが悔い改めなければ、全員、同じように滅びるのだ。」「あなたがたも、神に対する悔い改め、生きかたを一新しなければ、これらの事件の被害者の運命と同じになる。神に対する無知なる認識こそ、不幸である。

実を結ばないいちじくの木
ブドウ園といちじくの木は、イスラエルを象徴するものである。「荒れ野でぶどうを見いだすように、わたしはイスラエルを見いだした。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖をわたしは見た。」(ホセア書9章10節)
当時、ブドウ園にいちじくの木を植えることは、特別なことではない。実をつける木は一緒に飢えられた。いちじくは豊穣の象徴であった。
主なる神が約束したカナンの地は、「あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。」申命記8章7~8節)
古代ギリシャ、ローマでは、いちじくは主食の一つである。いちじくは植えて3年で実をつける。
「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見
つからなかった。 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』 13:08園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」(6~9節)
ブドウ園の主人は、いちじくの木を植えて実を結ぶのを楽しみにしてい
た。「3年経てば実を結ぶはずなのに、一向にその気配がない。その木を切り倒してしまえ、なんのために、土地を無駄に塞がせておくのか」と主人は、園丁を叱り飛ばした。3年経ってから時間を経たのにまだ実をつけない。これは、不毛の民、イスラエルに対する神の裁きの宣言である。
ミカ書7章、「悲しいかな、わたしは夏の果物を集める者のように、ぶ
どうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなくわたしの好む初なりのいちじくもない。主の慈しみに生きる者はこの国から滅び人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい互いに網で捕らえようとする。彼らの手は悪事にたけ役人も裁判官も報酬を目当てとし名士も私欲をもって語る。しかも、彼らはそれを包み隠す。 彼らの中の最善の者も茨のようであり正しい者も茨の垣に劣る。お前の見張りの者が告げる日、お前の刑罰の日が来た。今や、彼らに大混乱が起こる。」(ミカ書7章1~4節)
この預言者ミカと異なるのが、園丁の答えである。『御主人様、今年も
このままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」園丁は、手をかけ努力していちじくの木に実をならせようとしている。
主人の忍耐も限界を超えている。園丁は主人に乞う。「今年も切らないでそのままにしてください。木の周りを掘って肥料をやってみますから」
と1年の猶予を願い出た。それでだめなら木を切り倒してください。
今日の招詞、バプテスマのヨハネの言葉、「斧は既に木の根元に置かれ
ている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。」
(ルカ福音書3章9節)を想う。
 この譬えのブドウ園の主は神、実のならないいちじくは、悔い改めないユダヤ人、私たち人間、園丁はイエスである。
 イエスは、言われる。「決定的な裁きの時が来る前に、回心せよ」それは、刑の執行猶予である。
 私たちは、このいちじくの木です。神さまから悔い改めのみを結ぶことを期待されています。神さまは、この世界と私たちの先祖アダムを造りましたが、アダムは神さまの命に背いて楽園、神さまの許を追われます。それ以来、私たち人間は、神さまの道を外れ続け、神さまに背き続けました。神さまは、預言者やあらゆる機会をとらえて、悔改めて神に立ち帰ることを呼びかけて来ました。しかし、私たちは悔い改めの実を結ばず、神さまの許に立ち帰ることが出来ません。しかし、それでも実りがない。神さまは、忍耐して待っておられます。神さまは、ご自分の独り子を十字架につけて悔い改めを促されます。教会に聖霊を送り、私たちの心に迫っておられます。 「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。3:20 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」(ヨハネ黙示録3章19~20節) 

神さまは私たちの心が神さまに開かれるのを待っておられるのです。あなたがたも、悔い改めないなら、同じように滅びるのだ。