日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.9.15「互いに足を洗い合いなさい」

Posted on 2019. 9. 17, 牧師: 藤田 穰

聖書 ヨハネによる福音書13章1~10節、14節

13:01さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。 13:02夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。 13:03イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、 13:04食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。 13:05それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。 13:06シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。 13:07イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 13:08ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。 13:09そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 13:10イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」13:14ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。

 敬老の日

 100歳以上の方が75千人を数えるという。健康長寿の方が増えている証拠だろう。そのうちに平均寿命100歳の時代が来るかもしれない。健康に年を取っていけたら素晴らしいと思う。

 足を洗う

 仏教用語で裸足で修行に歩いた僧侶が寺に帰ったときに、泥足を洗うことで俗界との煩悩を洗い清めて、佛業に入ったことから、悪い行いをやめる意味で使われるようになった。その意味が転じ、現代では、悪業、正業に関わらず、職業を辞める意味で使われるようになった。

  洗足学園中高・大学(学校案内より抜粋)

    キリストは、明日は十字架の上に消えることを悟ったとき、12人の弟子たちの足をひとりひとり洗ってやって、最後の晩餐の席につきました。新約聖書ヨハネによる福音書13章に次のように書かれています。 イエスは、夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭(てぬぐい)をとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭で拭きはじめられた。(中略)しかし、主でありまた教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた互いに足を洗うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしが手本を示したのだ。
 教育の理想を深く思慮し、そしてキリスト教を厚く信仰し、賛美歌を愛唱した前田若尾先生は、迷うことなく「洗足」と命名されたことでしょう。

  「理想は高遠に、実行は卑近に」謙虚にして慈愛に満ちた心をもち、社会に奉仕貢献できる人材を育てるため、洗足学園中学高等学校では、独自の指導をおこなってきました。本校の目指す教育は、社会にあってリーダーの役割を果たす人材の育成です。こうした人材には、深い教養、高い知性、優れた社会性、高い品格が求められます。その基礎をしっかりと構築することが本校の教育なのです。洗足の歩み 「たがいに足を洗えとのりし み教え守るここの学びや」 創始者前田若尾先生作詞の洗足学園校歌の一節です。

  

  謙虚にして慈愛に満ちた心情、謙愛の徳を養い、気品高く、実行力に富む有為な人物を育成する。

  聖書 ヨハネ福音書13

  01さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

  イエスは、父のもとに移る時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛したとあります。ここにたくさんの意味があります。主イエスの十字架の死、復活を通して、神の永遠の御心が示されることです。この時に主イエスは世にいる弟子たちを愛されたのでした。世(コスモス)という言葉は、新約聖書に41回使われています。世は相対的な不確実な世界を指します。著者ヨハネは、主イエスの十字架の出来事を通して 私たち一人一人のなかに永遠の神の愛が示されようとしている。それを象徴として、主イエスは心から弟子たちを愛されたのです。しかし、それでも純粋に、弟子としてイエスに従ってゆこうという側面と同時に、ユダのように神から離れてゆこうという悪魔的な性質もあるということです。

  それは過越祭前日の夕食即ち、最後の晩餐の席の出来事でした。イエスは席から立ちあがって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰に巻き、たらい水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰の手ぬぐいで拭き始めたのです。

  足を洗うという風習は、現代の日本にはないものです。江戸時代、東海道を旅する旅人たちは、その日の宿にたどり着くと草鞋を脱ぎ足を洗いました。イスラエルでは、年に2回しか雨が降りません。それは、春の雨、秋の雨と言われます。雨季以外は、湿度10%以下という乾燥地帯です。歩くと、足に埃が付きます。よその家を訪ねた時には、足を洗うということはごく普通のことでした。よその家に正式に招待されたときには、まず、入浴してから招待先の家に行くことになっていたのです。

  ペトロは、自分の番が来た時、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。 

聖書の言葉は、その時に分からなくてもよい。大切なのはその分からない言葉を心の中に大切にとっておくことである。イエスの母マリアがそうである。羊飼いたちがそして急いで行って、マリヤとヨセフ、また飼葉おけに寝かしてある幼な子を捜しあてた。 彼らに会った上で、この子について自分たちに告げ知らされた事を、人々に伝えた。人々はみな、羊飼たちが話してくれたことを聞いて、不思議に思った。 しかし、マリヤはこれらの事をことごとく心に留めて、思いめぐらしていた。

神殿の少年イエス ルカ249節 するとイエスは言われた、「どうしてお捜しになったのですか。わたしが自分の父の家にいるはずのことを、ご存じなかったのですか」。 しかし、両親はその語られた言葉を悟ることができなかった。 それからイエスは両親と一緒にナザレに下って行き、彼らにお仕えになった。母はこれらの事をみな心に留めていた。

そうすれば、やがて時が来ると、時が熟したら、聖書の言葉がその時に生きて働くことを知るようになる。言葉を豊かに貯えよ。その背後には神の御心がある。 コヘレトの言葉 12:1 青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。
 詩編1443節 主よ、人は何ものなので、あなたはこれをかえりみ、人の子は何ものなので、これをみこころに、とめられるのですか。

  神がわたしたちを御心に留めておられることを忘れぬように

ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言った。ペトロは、勿体ないと遠慮したのである。足を洗うのは奴隷の仕事であった。ペトロは何故、イエスが弟子の足を洗うのか悟らなかった。神の子であるイエスの奴隷としての洗足奉仕、愛の奉仕が指し示す究極の神の救いの啓示であることを問われているのだが。イエスのたちへの奉仕の必要を考えなかった。その時のペトロは、イエスの十字架の死が自分たちの救いのために必要と考えなかったのだ。だから、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言った。イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

普通の人はそんな奉仕を考えない。しかし、イエスにとって今は神の子としての奉仕が必要なのだ。神の子の目からみれば、人間の足は 歩けば歩くほど汚れる。人生も歩めば歩むほど、罪と汚れに満ちてくる。主イエスは、罪と汚れのために十字架に架かられたのである。この十字架がなければ、ペトロは主イエスとなんのかかわりもなくなる。

  そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

  前に述べた通り、会食に出かける時は、入浴、湯あみをしている。

 だから、全身を洗う必要はない。ここでは、イエス・キリストを信ずる者は、その十字架による罪の贖いにより、新しく生まれたのだから、神によって全身が清められている。したがって全身を清める必要はない。しかし、毎日生活していると、罪により汚れる。その罪を日ごとに主イエスの十字架によって清めていただく、赦して頂くことが必要である。

  しかし、ここでは皆が清いわけではないといわれた。あなたたちは清いと言われた弟子たちも、誘惑におちいらないように言われた。現に、弟子の一人ユダの裏切りが近づいていた。

  最後にイエスは、言われた。13:14ところで、主であり、死である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗い合わなければならない。

  これが洗足の第2の意味である。イエス・キリストが奴隷の形をとって弟子たちに仕えたのだから、そのイエス・キリストを信じる者は、イエスに愛され仕えられたので、その愛を持って人々に仕えあうようにしなければならない。誰かを助けるために人は生きているのである。誰かに支えられるために生きているともいえる。そこに存在理由がある。

  イエスは、「互いに足を洗い合わなければならない。」と弟子たちに言われた。それは、主イエスによって足を洗っていただいたときに実現するのである。イエスの十字架による罪の赦し、愛を知った時に、神の愛を、恵みを受けて、他者のために生きるようになる。そして、イエスの愛のうちにある者は、互いに仕え、互いに奉仕を受けることが、互いに愛せよの意味である。イエス・キリストの愛に押し出されることだ。

  マザーテレサは、修道院を出て、死を待つ人たちに仕えた。マルチン・ルーサー・キング牧師は、「私には夢がある。いつの日か、小さな4人の子供たちが、肌の色で判断されることなく、中身で評価される国で暮らすことだ」と黒人公民権運動を進め、ワシントン大行進を成功させ、公民権法を成立させましたが、その後、暗殺されました。私たちもことの大小はともかく、キリストの愛を指し示すべく、この世に遣わされていることを忘れてはなりません。