日本キリスト教団 東戸塚教会

2019.9.22「十字架を背負う」

Posted on 2019. 9. 24, 牧師: 杉村 和子

聖書 マタイよる福音書5章43~48節
14:25大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。 14:26「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 14:27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。 14:28あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。 14:29そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、 14:30『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。 14:31また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。 14:32もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。 14:33だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」 14:34「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。 14:35畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」

今日は、教会暦に沿った主題です。とても難しい箇所で、神に委ねてお話しします。「十字架を背負う」ということは、イエスの十字架、私たちの十字架背負うという重複した意味がある。イエスは十字架に向かってエルサレムに旅を続ける。熱狂的な群衆がついてくる。彼らはイエスが自分たちのために何かをしてくれることを期待していた。イエスの弟子たちも然りである。イエスは私に従うのは簡単ではないと言われた。弟子の条件は、厳しい言葉でした。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。 14:27自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」「自分を捨てて従え」とは、マタイ、マルコ福音書の並行箇所にも記されている。このルカ福音書では、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」という。「憎む」なら弟子となれるととれるが…。憎むは、アラム語の原語では「少なく愛する」の意味がある。家族や自分自身よりも、イエスを最優先で愛せよ、と言われたのである。
ペトロたちがイエスに弟子として従ったとき、家族や持ち物を捨ててイエスに従いました。その弟子たちに更に「自分自身の命を捨てなさい」と言われるのです。
あなたがたのためにも十字架の苦難がある、それを背負う覚悟があるのかと言われます。イエスの十字架を前に逃げ出した弟子たちに、その覚悟をできたのは、復活のイエスに出会い、「イエスが自分たちのために十字架に命を捨ててくださった」「敵前逃亡し、裏切った自分たちを許してくださった」ことが分かってからです。一般の感性で従うならば、従うことはできません。
22節の「塔を建てる」のは、農夫が見張りのために塔を建てるということです。お金がかかるので善く考えねばなりません。31節の2万の敵の大軍に、1万の手勢で戦わねばならない王さま、この戦いに成算があるのか、よく考えて実行せねばなりません。
イエスに従うには、多くの犠牲が伴います。私たちにはできないと
思う。しかし、イエスは、強制はしていない。従う自由、従う時を選ぶ自由を与えられている。私たちは、いつも分かれ道にいる。時には右、時には左を選んで歩む。しかし、それが泥沼だったりする。
信仰生活、覚悟していたが、楽な時ばかりでない。苦しみが与えられる。耐えられるか。
ルカは、塩の例えをあげる。料理をするとき、醤油や塩で味付けをする。味見をしてこれで良しと思っても、時間が経つと一寸薄かったと思うことがある。信仰も世の中に馴染むと薄くなってしまう。効き目のない潮になってはいけない。そうは思っても難しい。
私事になるが、神学校卒業時、校長先生に言われた。「皆さんはヨルダン川を渡ったのだから、向こう岸に戻ることはできない。しかし、あなたの進む道は、一人ではない。神がイエスが共に歩んでくださる。神に委ねて歩みなさい。」ヨルダン川を渡るは、ヨシュア記3章の故事である。カナンの地を目指し、モーセに率いられたイスラエルは、紅海に道を塞がれた、そこに神の奇跡が働き、道が開けた。モーセの後継者ヨシュア、ヨルダン川を前に、川の水が溢れんばかり、そこでも神が奇跡を起こされた。3章7節、主はヨシュアに言われた。「今日から、全イスラエルの見ている前であなたを大いなる者にする。そして、わたしがモーセと共にいたように、あなたと共にいることを、すべての者に知らせる。」あなたと共にいて、その行く道を守ってくださる。主を信じたヨシュアの一行は、カナンの地へと進んで行った。これが、卒業生に対するはなむけの言葉でした。
もうひとつ、自分の十字架を背負って従えです。受洗してヨルダン川を渡ったにも関わらず、自分の十字架につぶれそうになる。しかし、神さまは助けてくださる。今も歩んで行ける。大切なものを捨てて従う。それが重荷になる。勇気のいることだ。従うことが重荷になる。
私たちは、時に従うことに疲れることがある。頑張れば、イエスの恵みを与えられることが多い。心が折れる時、御言葉に勇気を与えられる。そのたびに救われてきた。イエスに心を向け、神に自分を明け渡してみよう。イエスは神との和解を与えてくださった。その死によって新しい命を私たちは得ている。その恵みを感謝するとき、イエスを愛し、生き生きと生きているなら、家族を愛することにつながる。
人間関係や病、老い、死の十字架、まず、背負うは委ねることである。思いを委ねてイエスに従ってゆく。恐れから解放されるとき、十字架は軽くなる。思ってもみない苦しみ、悲しみ、神がいないのではと思うときがある。それでも、イエスは、私に委ねて従ってきなさいと招いていてくださるのではないか。イエスに従って行けば何とかなる、恵みになる。イエスの招きの言葉に感謝して従ってゆければと思います。皆様と一緒に。