日本キリスト教団 東戸塚教会

2020.1.19「何を求めているか」

Posted on 2020. 1. 22, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨハネによる福音書1章35~42節

 01:35その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。 01:36そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。 01:37二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。 01:38イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 01:39イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。 01:40ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 01:41彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 01:42そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

  

桜を見る会問題とイランのデモ

 一昨日の17日で阪神大震災から25年を迎えた。神戸の街並みは復興しきれいになった。しかし、永田地区のように人口が震災前の70%の地区もある。震災を知らない世代が多くなった。震災以来、追悼式に初めて出席した方もおられる。このまま風化してはならないという。犠牲になった人の分まで長生きして欲しいと願う。

 新年早々の世論調査、何故か安倍内閣の支持率はわずかにあがった。その中に桜を見る会の安倍総理の説明に納得しているかの質問には、70%の人が納得していないとの回答であった。これまでの安倍内閣のやりかたからすると時間がたてば忘れてくれるとの魂胆がありありだが、世論はそれを赦すのだろうか。

 イランでのウクライナ機の爆発、墜落事故、乗客乗員全員が犠牲となった。当初、イラン当局は機体の異常を訴えていたが、自国の短距離誘導弾による誤射を認めた。当初否定したイラン政府の対応に対し、最高指導者ハメネイ氏の退陣をもとめてのデモが続いている。

 日本にしろ、イランにしろ国民が求めているのは真実である。真実を明らかにしない限り、安倍内閣は信頼を回復できないだろう。また、イランの国民が求めていたのも真実であった。短距離弾道弾の部品や墜落時の飛行機の状態が明らかにされては、イラン当局もごまかしきれないと覚悟したのだろう。  昔の映画のセリフではないが、「国民をなめてたらいかんぜよ」である。

 ヨハネ福音書の今日の個所は、イエスの最初の弟子に関する次第である。その翌日、この前日には、イエスの洗礼の記事があった。洗礼者は、バプテスマのヨハネである。ヨハネが、自分の二人の弟子といる時に、イエスが歩いてきた。ヨハネは、イエスを見つめて「神の小羊」といった。それを聞いてヨハネの二人の弟子はイエスに従ったのでした。二人の弟子の一人は、シモンペトロの兄弟アンデレでした。

 神の小羊とはなにか。3つのことを想う。

① 出エジプトの時の過越の小羊を指す、出エジプト記121~14節 エジプトの国を脱出するにあたり、主はモーセとアロンに言われた。イスラエルの共同体全体に次のように告げなさい。『今月の十日、人はそれぞれ父の家ごとに、すなわち家族ごとに小羊を一匹用意しなければならない。その小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。用意するのは羊でも山羊でもよい。イスラエルの共同体の会衆が皆で夕暮れにそれを屠り、 その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗る。そしてその夜、肉を火で焼いて食べる。また、酵母を入れないパンを苦菜を添えて食べる。それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である。 その夜、わたしはエジプトの国を巡り、人であれ、家畜であれ、エジプトの国のすべての初子を撃つ。あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越し、(その家を撃たない)。

 過越の祭りの起源となった出来事でした。

 ②イエス当時のエルサレム神殿に供えられる小羊(小羊は供えた人の罪を贖う犠牲である)また、 ③イザヤ書イザヤ書537節以下の苦難の僕の箇所にある小羊である。「 彼は、苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか。わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを。

苦難の僕、それは、私たちの罪の贖いのために十字架に架かられたイエスの姿を言い表している。

二人の弟子はこの言葉を聞いてバプテスマのヨハネの許を去りイエスに従った。二人の弟子の一人は、シモンペトロの兄弟アンデレである。その動機については何も記されていない。バプテスマのヨハネは、自分の立場を良く知っていた。ヨハネは自分のことを「わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。 あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」(ヨハネ福音書32830節)と語っている。

 レオナルド・ダビンチの絵に、「洗礼者ヨハネ」というヨハネが右手で天を指し示す絵がある。ヨハネ手の先に示されているのは、メシア即ち、イエス・キリストである。バプテスマのヨハネは、先駆者として立てられ、イエス・キリストの到来を指し示す者でした。

 ヨハネは、自分の弟子たちをイエスに引き渡すことを喜びとしたに違いない。この物語の背後には神がおられる。神の御計画と配慮のうちにことは進んだのである。

 38節 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。

 イエスは二人がついてくるのを見て「何を求めているのか」と聞いた。イエスは、振り返り二人に歩み寄られた。イエスは彼らのために、彼らが自分についてこられるように、その戸を自ら開かれたのである。

神が独り子イエスを私たちに遣わしたのは、神が私たち人間をを案じておられたからだ。

 創世記には、エデンの園で最初の人アダムとイブが神さまとの約束を違えて、「知恵の成る木の実」を食べて姿を消したとき「あなたがたは、どこにいるのか」 と探し回ったのは神さまでした。それ以来、ずっと、神さまは、「あなたはどこにいるのか」とわたしたち人間を探し神への回復を求めています。先ず、神さまが私たちに歩み寄ってくださっているのです。

 神さまの御計画、御意志がさきにあってここに神の小羊イエスがおられるのです。

 「 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

ヨハネの手紙410節)

 神さまは、私たちに会うためにこの世界にこられたのです。中世の神学者アウグスチヌスが言ったように、「もし、神がわたしたちを見出してくださらなかったら、私たちは神を模索することすらできなかったであろう。」と言ってます。神さまはイエス・キリストを通して、人生途上にあるわたしたちをご自分の許に、エデンの園に立ち帰るように誘っておられるのです。

 あなたがたは、「何を求めているか」これは最も基本的な問題です。それは、他の福音書の読者にも求められているものです。私たちに、向けられているイエスの問です。

 私たちは、人生の途上において、自分自身を問うことがあろう。「わたしはいったい何を求めているのか。自分の人生に何を見出し、何を得ようとしているのか。その目的は何なのか。この限られた人生から何を得ようとしているのか。」 ある者は安定した地位や、生活の必要を満たすお金など物質的保証を求めている。 ある者は、自分の才能や能力にあった地位や仕事を求めている。

 この二人の弟子はどうであろうか。ヨハネがイエスを神の小羊と指示したことを聞いて従ったのである。「何を求めているのか」の問いに、ラビ、どこに泊まっておられるのですかと答えたのです。「ラビ」(先生)、ラビを求めて」いるのです。ともとれる。バプテスマのヨハネというラビに仕えてきたが、ヨハネはもっと偉大な先生を求めよといわれたのでした。

 彼らはイエスを偉大な指導者と見なして「どこに泊まっておられるのですか」と続けます。彼らは先生・イエスの泊まっているところに出向いて、教えを請いたいと願ったのです。

イエスは「来なさい。そうすればわかる」と云いました。文語訳では、「来たれ、さらば見ん」です。来てみればわかると言われたのです。神がイエスにおいて示された教えと業を見聞きすれば、イエスの全生涯を思い起こせば、自分の求めていることの中身と答えがそこにあることに気づくはずです。

 この泊まると訳されているメネメインは、「留まる」「つながっている」という形でも使われています。ヨハネの15章にブドウの木の教えがある。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

(ヨハネ福音書15章4~5節)

また、「泊まる」は、「どこに位置しているか」という意味にも使われています。「あなたは、誰なのか」「イエスは、誰なのか」、「あなたは、神の救済計画の中でどこに位置するかたなのですか?」という意味にも解釈できるのです。

 そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。

 彼らは、イエスのおられる所を知ったのでした。後でイエスが語られたように、「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいる」(ヨハネ福音書143節)ことが出来るようになったのでした。こうして、二人の弟子は、完全にイエスの弟子となったのです。午後4時は、第10時でした。10は完全数、時が満ちたことをしめしています。

 40節以下、 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 その後、アンデレ(男らしい)が兄弟のシモン(神は聞いた)にあって、「私たちはメシアを見つけた」と云います。「メシア・油注がれた者」、アンデレは、イエスと宿で寝起きして、イエスがメシア(救い主)であることを知らされたのでした。メシアは、ギリシャ語のキリスト・油注がれた者、この世の救い主である。

アンデレが兄弟シモンをイエスのところに連れてゆくと、イエスは、シモンを見つめて、「「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。ケファはアラム語の岩である。ギリシャ語の岩がペトロである。イエスはガリラヤの一漁師に過ぎなかったシモンの中に、岩となるべきものを見た。見つめることで彼を見つけたのでした。その岩の上にご自分の教会が建てられることを予見されたのでした。

かのミケランジェロは大きな岩石をのみで削っていた。これを見た人が、何をしているのかと尋ねた。「わたしは、この大理石の中に閉じこめられている天使を解放しようとしているのだ」と答えたという、

イエスは、出会ったわたしたちの生涯もみておられる。

 イエスこそ、シモンに見たように、すべての人の中にある隠れた未来をも見、それを解放し、実現してくださるのではないか。

イエスの弟子はイエス御自身が選ばれた。

イエスは彼らを最初の弟子とした。ペトロ、アンデレ、後の一人は、無名とされているが、ここにある二人の弟子をゼベダイの子ヨハネとヤコブとすることも可能である。(k・バルト)

 私どもの教会は、イエスの言われた「来てみなさい」とこの世の人々に言える場所である。イエスの「来てみなさい」に代々の教会はつながっている。福音書著者のヨハネは、「来てみなさい」に万感の思いを込めていたのでした。「私はイエスに出会った。あなたもイエス・キリストに出会って欲しい」この出会いの連鎖の願いがが教会の働き、伝道である。ヨハネは、自分の生涯と弟子たちの行動の中に、息づいている信仰を見ているのです。こうして弟子となったアンデレ、ペトロ、もう一人の弟子も皆生涯の終わりまで主イエスを信じつつ歩んだのです。と福音書記者ヨハネは証言しているのです。私たちも、これに続く者なのです。