日本キリスト教団 東戸塚教会

2020.1.26「神の招きに応えて」

Posted on 2020. 1. 27, 牧師: 北島 敏之

教会とは何か。教会は、神の恵みにより召されたる者の集いである。
日本キリスト教団の信仰告白に「教会は主キリストの体(からだ)にして、恵みにより召されたる者の集(つど)ひなり。」とある。
 毎週の聖日、主の日に、この恵みを確認する所に教会生活の原点がある。
 キリストは神の恵を告げ知らせ、我々はそれによって、新しい生活に進む。キリストは、神の恵を私たちに働きかけ、私たちを招いておられるのです。御言葉により、その御業によって召しているのです。
 聖書の人物は、神の召しに生き、それを証言しているのです。モーセ然り、イザヤ、エレミヤ等々、人々は神の召しに応じ、それに応えたことが、聖書に示されています。
新約に入ると、キリストが召されました。それが教会の始まり、その後2000年、聖霊を通して召し集め、召しに応じて、教会生活を進めている。
 私たちは、志を立てて教会に来るようになった。家族や友だちに誘われたとしても、自分で志してきたのである。志し、願い、教会に来るようになった。思い悩みながら志し、決心して洗礼を受け、教会員となり、信仰生活をしている。自分で志してくることが大切である。自分で願い、努力したものが身に着く。強制されたり、押しつけられたものは長続きしない。
 自主性か、恵みにめされたのか。自主性は、表面的なもの、現象的にそうであっても、その奥にあり貫いているもの、その背後には自分たちを導いてくださるものがある。神の見えない導きがあればこそ、洗礼を受け
教会の奉仕をする。自主性と神の導きは、一つの現象であり、事実である。
 自分で志し、願って教会に来るようになった。その背後にある神の招きは、私たちに志を立てて、導いてくれる。
 優れた教師は、生徒が身につけて欲しい能力を、その状況に合わせ、子どもに合わせて教える。生徒本人は自分の力で、努力してこうなったと考える。けれども、深く考えれば教師の、親のねんごろな配慮があることを考えねばならない。そして。それは、傲慢でなく、謙虚に感謝に満たされていることを。
 人生の節目において、自分のこれまでを考えて思い当たること、日常生活の中で、祈り、気づかされるのです。自分の意志で歩いてきたと思っていたが、その背後に神の招きがあった、そう思えるなら感謝すべきことである。
 詩編63篇と今思い起こしたことに合わせると、6~7節、「わたしの魂は満ち足りました、乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたいわたしの口は賛美の声をあげます。床に就くときにも御名を唱えあなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」となる。
 床について、周囲が静かな時に、私の魂は満ち足りた。この表現、讃歌ダビデの詩とある。ダビデが息子アブサロムに裏切られてユダの荒れ野をさ迷っていた時の詩である。ダビデは、イスラエル史上はじめて国を統一した勇者、その彼に落とし穴があった。息子アブサロムの反乱、命からがらユダの荒れ野をさ迷う。その中で自分の人生を振り返ったときは、絶好調でないときである。
 この詩編、学者は、ダビデの詩ではなく、バビロン捕囚の長い苦しみの
中の歌とみている。そうだとすれば、もっとひどい捕らわれのときに故郷を思い歌ったのであろう。3節の聖所、故郷エルサレム神殿の聖所に目を注ぐのです。「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望みあなたの力と栄えを見ています。あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ手を高く上げ、御名によって祈ります。わたしの魂は満ち足りました、乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたいわたしの口は賛美の声をあげます。床に就くときにも御名を唱えあなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします。」 この床に就くときも、それは、冷たい地面だったかもしれない。
しかし、8節「あなたは必ずわたしを助けてくださいます。あなたの翼の陰でわたしは喜び歌います。」
 バビロン捕囚においても、ダビデの逆境においても、神は乳と髄をもってもてなしてくださる。平穏な時に神を想うことは難しいことではない。けれども逆境にある時に、肉体が衰えたときに、病床において病むときも、神を仰ぐときには満ち足りている。人生の深みが分かる。表面的なことに一喜一憂するならば、浅薄な生涯になる。神の恵みも、人の愛も分からない。精神的には貧しい生涯となろう。
 自主性をもって神に近づくそのとき、彼に神の導きがある。
 教会が始まったのは、ペンテコステの時である。使徒言行録2章に記されている。表面的にはそうである。その奥にあるもの、それは教会は、キリストが弟子たちを招き、弟子たちが招かれたことから始まる。キリストが教会を招かれた時が教会の始まりである。
 マルコ福音書1章14~15節、ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
 時は満ち、神の国は近づいた。神の恵みの業が現れたのだから、悔い改めて福音を信じなさい。16~20節、漁師のシモン、アンデレ、ヤコブとヨハネが招かれ、招きに従った。この記事は、福音書の最初にある。宣教の最初に弟子たちを招く記事がある。人々の招きは教会を形成するためになされた。キリストの招きは、懇切、丁寧、多様性がある。
 それは、経験と二重写しになっている。今あるのはキリストの招きである。招きの多様性があって、招かれたことは事実である。 信仰告白に、教会は恵みに招かれた者の集いという。招きに応答すればよい。
その中心になることは礼拝である。神の招きに応答する者は、礼拝する者となる。この礼拝から応答が始まる。礼拝には招きと応答がある。
 礼拝は神の招きから始まる。招詞…招きの言葉から始まる。聖書朗読…神の恵みを読み取る。 説教…聖書への牧師の説き明かし、聖霊による説き明かしがある。 応答には讃美がある。神ここにいますである。 祈り…信仰が行われること、教会のため、この世のため、神の栄光が顕れることを祈る。献金…応答である。信仰を持って真心を献げる。金銭は大切なもの、これに託して応答の志を表す。 祝祷…この世に派遣される
 礼拝をささげ、祝祷をもってそれぞれの場所に派遣される。
 キリスト者の生活は、常に礼拝から出発して行く。心を尽くし、心を込め生き方を示してゆく。礼拝により心の姿勢が正しくされる。神に対し心の背骨、姿勢が正しくされる。礼拝から出発して、次の礼拝に帰ってくるのである。 信仰が与えられているとは、このこと。
 ハンセン病の方の短歌 キリストへの信仰が歌われている。
これのみは 心に抱きつ 死ぬるなし すべての人に背かれて我
暫く前まで、ハンセン病は天啓病といわれ、隔離、収容された。人から疎まれた。作者は、この世のことは変われど、信仰のみは心に抱いて、死んでゆきたいものだ。
信仰は生きざまが示されている。これからの生涯、神の恵みの中に生き、人生を全うしたいと思う。