日本キリスト教団 東戸塚教会

2020.1.5「主は来られた」

Posted on 2020. 1. 6, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨハネによる福音書1章14~18節

 01:14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。 01:15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」 01:16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。 01:17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。 01:18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 洪福寺松原商店街

 暮れは、上野のアメ横商店街が風物詩になっているが、保土ヶ谷区の洪福寺商店街も負けていない。テレビ放映されたが、昔ながらの商店街である。 八百屋さんにはレジがない、対面販売をしており、つり銭の籠がつられている。来るお客さんには、その日お勧めの野菜を勧めている。皆、顔見知りである。お客さんの一人は、ただ商品がきれいに並べており、レジで並ばねばならないスーパーは、冷たい感じがするという。ここでの1対1で言葉を交わしながらの買い物は楽しいし安心感がある。お店の人は、ここに来るお客様は家族ですからと言う。普段のスーパーやコンビニでは忘れられている光景であるが、ここでは健在だ。

 教会も神の家族、キリストの家族である。

 主が来られた

 14節 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」

 この一言に、ヨハネ福音書のエッセンスが込められている。そして、この一言は、イエス・キリストの誕生、クリスマスのすべてを語っている。これがヨハネのクリスマスの出来事です。そして、ここには、著者である弟子ヨハネの、そして、初代教会の信仰体験の思いが込められている。

 言(ロゴス)は、肉(サルクス)となった。ヨハネの言は、神という意味です。神が肉の存在、人間となられた。神の独り子が天の高みから、我々のために低きに下って来られたのです。この表現は、驚天動地のことでした。当時の人にとっても、現在の私たちにとっても信じがたいことでした。

 旧約聖書の時代の人たちには、この眼で神をみると考えた人はいなかったのです。イスラエルにはアブラハム以来の神信仰があります。それは、モーセによってもたらされた律法により、神を仰ぎ、神に力を尽くし仕えることでした。預言者は、神の言葉を取り次ぎましたが、やはり間接的なものでした。イエス・キリスト以前の人たちは、間接的に神を知ることで満足していました。

また、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教は、同一の根を持つ唯一神教の宗教といわれます。しかし、イエス・キリストは、ユダヤ教、イスラム教においては、一人のあまりぱっとしない預言者とみています。イスラムでの最大の預言者は、ムハンマドです。イエスをキリスト(救い主)と考えることは、ユダヤ教、イスラム教においてあり得ないのです。神が独り子イエスを受肉させた、このイエスを救い主として告白することは、キリスト教以外ではありえないのです。

ギリシャの思想では、「言が肉となる」ということは驚天動地のことでした。「言・ロゴス」は、ギリシャ語で永遠の存在、即ち、神を意味します。ギリシャ思想において、神は霊であり、永遠なる神は肉体にはならないのです。永遠的なものが、私たちのように有限にして滅びゆく肉にはならないのです。神が肉体を取るなどということは、あってはならないことでした。これが常識でした。ギリシャ思想の方が、今でも現実的に想えます。アリストテレスでも、ソクラテスでもそうです。プラトンは、「人間と神が出会うことは全く不可能だ。」と言ってます。永遠なるものが、有限的なものと出会うことはあり得ないのです。このような背景のもとで、「言が肉体となることはあり得ないのです。当時の人々にとって、キリスト教は、受け入れがたかったのです。 

当時、ギリシャ、ローマ世界に広がっていた、グノーシス主義(霊肉二元論)がキリスト教の中に入ってきたとき、ドケティズム(仮現論)という異端思想が起こりました。神は見かけだけ人間の姿を取ったのであり、本当の人間になったのではなく、彼らは霊的キリストを崇拝しました。

彼らにとって神が十字架に死ぬことはあり得ません。十字架の死の前に十字架を背負ったキレネのシモンに入れ替わったという説までありました。

 

 ここの「わたしたちの間に宿られた」という言葉は、「彼のテント(天幕)を張った」です。エジプトを脱出したイスラエルの民は、荒れ野の放浪生活にあっても、まず、天幕を張って祭壇を築き、神を礼拝する場所を造りました。そこが、神さまが宿ってくださる所と信じていたからです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とは、神さまが人間の姿をとって、私たちの間に天幕を張った。私たちの間に住んでくださる、私たちと共にいるということです。私たちと一緒に生きる者となったのです。

 最初の人アダムは、神に創造されたにも関わらず、神さまとの約束を破り、神から離れ、背く存在になりました。のちに、モーセは、律法を通して、救いに至る道を開いてくださいましたが、それも守り切れませんでした。神さまの意志と反して、人間の解釈を加え、ますます、律法が多くなり、守りきれないものとなりました。次に、預言者を通して神さまは、その御旨を伝えましたが、人々は信じませんでした。

 神さまは、ご自分から離反した人間が罪を重ね、滅びることを良しとせず、私たちを救うために、神さまの方からこの地上にこられることを決意したのでした。

 これは、少し異なりますが、イエスの譬え話、「ブドウ園と農夫の譬え」を思わせます。マタイによる福音書213346節、 「ひとりの家の主人が、ブドウ園を残して、旅に出かけた。それを農夫たち(小作人)に貸して、彼らを信頼してその働きに委ねた。収穫の時期が来て、主人はしもべたちを送って、利益の中から主人の取り分を取りたてさせた。ところが、農夫たちは主人のしもべたちを袋叩きにして、ある者は殺してしまった。主人は再びしもべたちを送ったが、農夫たちは同じ目に遭わせた。そこで最後に主人は自分の息子を送った。農夫たちはこれは跡取りだ、殺して相続財産を我々のものにしようと相談し、彼をぶどう園の外に放り出して殺してしまった、のでした。この譬え話は、ユダヤの指導者たち、祭司長や律法学者たちにされました。この話には、イエスの十字架の予告が隠されています。

 神さまは、時を得て、諸悪の罪の蔓延るこの世界に己の独り子イエス・キリストを送り込んだのです。神さまは天上から私たちの人生の歩みを、人間の持つ重荷、苦しみを見て、一緒に担ってくださるために人となってくださったのです。結果、この世の人々が、イエスを十字架につけて殺したのです。

 

しかし、この神の子をの生涯の目撃者ヨハネは、「わたしたちはその栄光を見た。」と云います。人間となられた御子イエスは、罪を犯さず、その最後まで父の御旨に従順でした。「2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ書28節)
 「恵みと真理とに満ちていた。」恵みは、思いのほか、身に余る恵み、自分の生き方に値しない恵みです。「真理」は神ご自身のことです。神がこの地上で人として生きるならば、こういう生き方をするという生き方です。イエスご自身、私は真理ですと言っておられます。

 律法はモーセによって与えられた。恵みと真理はイエス・キリストを通して与えられました。古い人生は、律法によって支配されていました。・しかし、イエスの到来によって、私たちは奴隷のように、律法に服従することはせず、イエス・キリストの愛と恵みの許に、自由に生きることを許されたのです。

 この恵みは、クリスマスを通して、私たちに贈られたプレゼントです。

16節、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」これが、イエス・キリストの御降誕によって恵を受け、恵みを信じた者の人生です。故志澤冨雄先生の晩年は、聖歌「604」の歌詞「数えて見よ、主の恵み」でした。先生は、恵みから、恵みへの人生を送られたのでした。これは、「のぞみも消えゆくまでに」 (聖歌604番) という聖歌です。のぞみも消えゆくまでに 世の嵐に悩むとき かぞえてみよ主のめぐみ ながこころは安きをえん かぞえよ主のめぐみ かぞえよ主のめぐみ かぞえよひとつずつ  かぞえてみよ主のめぐみ

これは、文字通り、「望みの消えゆく苦難の時にも、あなたに賜った恵みを数えなさい」という意味です。クリスチャンの人生は、神さまのこと、主イエスのことを知り、考えるだけではだめです。主の恵みをこの身に受けて、恵みを体現、恵みを数えて生きる、そして、主の恵みに応える生き方です。主が共におられて、私たちに恵みをくださるのですから

18節 「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」ヨハネがいうように、未だかって神を見た者はひとりもいません。しかし、ヨハネはそこに留まっていない。この地上に人間として生を受けた独り子は、己において神を表したのです。ヨハネは、「神さまがどのような方であるか見たいと願うなら、イエス・キリストを見よ」と言っているのです。ヨハネが最初の1節で証したように、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」と同じ意味です。

イエスは、父の懐から出でて、今や、十字架の死と復活、昇天において神の懐に戻られているのです。

聖餐式の招きの言葉に、たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(ヨハネ212節)とあります。父の懐におられ、私たちのために執り成していてくださるのです。

イエス・キリストにおいて、神は私たち人間世界に来られました。そして、神が私たちにとって、見知らぬ存在になることはない。主イエスは、「見よ、わたしは世の終わりまであなた方と共にいる。」と約束してくださいました。

主イエスは、山上の説教で教えられました。5章3節以下、「「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

私たちは、主イエスの御降誕に思いを馳せ、思いを新たにしました。私たちは、この年も、イエスが己を捨ててまで、私たちの救いのために、命を懸けてくださったことを感謝し、主イエスの愛と憐れみの許、主の恵みを受けつつ、その恵みに応える人生を歩みたく思います。