日本キリスト教団 東戸塚教会

2020.2.2「あなたの心を見抜く者」

Posted on 2020. 2. 5, 牧師: 藤田 穣

聖書 ヨハネによる福音書2章13~25節

 02:13ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。 02:14そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 02:15イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 02:16鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 02:17弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。 02:18ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。 02:19イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 02:20それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。 02:21イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。 02:22イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。 02:23イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。 02:24しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、 02:25人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。

 

 新型コロナウイルス肺炎の猛威

 今朝2日現在、死者304人、感染者14,000人を超えた。8人の

医師がサーズ級の肺炎と訴えたにも関わらず無視した中国当局の初動の遅れもある。ウイルスは、2日で倍増して行く。しかし、致死率はインフルエンザより低い。今冬の我が国のインフルエンザの患者は300万人を超え、死亡者は8千人を超えている。新型コロナ肺炎は、正しく怖れるべきである。 世界の指導者たちの英知と決断、指導力にその新型コロナ肺炎の早期終焉を託したい。

エルサレム神殿

この宮清めと云われる出来事は、他の福音書では、イエスの最後のエルサレム行き、過越しの祭りの最中に起きた事件として扱われています。ヨハネは、この宮清めの出来事を伝道の初めに起きたこととしてとらえる。ヨハネは、事実よりも真理に関心を持っている。イエスの伝記を書くつもりは毛頭ない。福音書記者ヨハネの目的は、イエスを神の子として、救い主メシアであることを読者に示し、証することにある。

ヨハネの関心は、イエスが何者であるか?イエスが何をされたか?にある。ヨハネの執筆は、マラキ書の預言を暗示している。「見よ、あなたたちが待望している主は、突如、その神殿(聖所)に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者。見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。だが、彼の来る日に誰が身を支えうるか。彼の現れるとき、誰が耐えうるか。彼は精錬する者の火、洗う者の灰汁のようだ。 彼は精錬する者、銀を清める者として座し、レビの子らを清め、金や銀のように彼らの汚れを除く。彼らが主に献げ物を、正しくささげる者となるためである。」(同書313節)

 ヨハネの心の中には、このマラキの驚くべき預言が響き渡っていた。イエスが神殿を清めたことを、それは、約束された神の行為であったからである。宮清めの出来事を通して、イエスこそ人々の礼拝を清め、神に至る門を開け放つ神のメシアなのだという事実を示すことであった。

何故、イエスは、暴挙ともいえる行動に出たのか。聖書には、14節以下、そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」

時は過越しの祭りの最中でした。過越しの祭りは、ユダヤ人の祭りの中で最も重要なものでした。律法では、エルサレム近郊30km以内に住む成人男子はこれに出席する義務があった。当時、地中海世界に散在していたユダヤ人たちは、父祖の故郷と父祖の信仰を忘れなかった。一生に一度で良いからエルサレムで過越しを祝うことが、すべてのユダヤ人の目標であった。驚きの記録であるが2百万人以上のユダヤ人が過越しを守るためにエルサレムに集まったという。

この祭りの最中、エルサレムに帰ってきた多くの者が、罪の赦しのため、神殿において犠牲をささげた。ユダヤ人にとり、エルサレム神殿は、心の拠り所でした。

エルサレム神殿

イエス当時のエルサレム神殿は、BC20年ごろヘロデ王によって再建、拡張が始まり、イエスが活動していた頃には46年が経っていました。

イスラエルの信仰の歴史は、神殿と共にありました。古くはモーセの時代、移動式神殿としての幕屋があり、そこに神の住んでくださる至聖所がありました。そして、待望の固定した神殿はダビデによって計画がなされ、その子ソロモンによってBC975年着工、7年の年月をかけて完成された第1神殿でした。しかし、その神殿は、バビロン王ネブカデネザルによってBC587年に破壊され、バビロンの主だった人々は、囚われの身となってバビロンに捕囚されました。その後、バビロン捕囚後のBC515年に第2神殿としてエルサレムとして再建されました。この神殿を拡張したのがヘロデ大王である。

イスラエルの苦難の歴史の中でエルサレム神殿は、イスラエルの人々の拠り所となり、神殿信仰と言われたように、神殿の建物に信仰をおくようになりました。

預言者エレミヤは、7章で彼らに警告しています。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々よ、皆、主の言葉を聞け。 イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、わたしはお前たちをこの所に住まわせる。 主の神殿、主の神殿、主の神殿という、むなしい言葉に依り頼んではならない。  この所で、お前たちの道と行いを正し、お互いの間に正義を行い、寄留の外国人、孤児、寡婦を虐げず、無実の人の血を流さず、異教の神々に従うことなく、自ら災いを招いてはならない。」(同書26節と警告しています。

 神殿は、イスラエルの歴史の中で、イスラエルの民の生き甲斐となったのです。ヘロデ大王は、民心を掌握するのに有効と考えたのでしょう。

神殿の犠牲の供え物 

しかし、この犠牲の供え物は真実の犠牲からかけ離れて行った。預言者ミカは言った。「何をもって、わたしは主の御前に出でいと高き神にぬかずくべきか。焼き尽くす献げ物として当歳の子牛をもって御前に出るべきか。 主は喜ばれるだろうか幾千の雄羊、幾万の油の流れを。わが咎を償うために長子を自分の罪のために胎の実をささげるべきか。人よ、何が善であり主が何をお前に求めておられるかはお前に告げられている。正義を行い、慈しみを愛しへりくだって神と共に歩むこと、これである。」

(同書668節)

神殿では、神に犠牲として、牛や羊そして鳩を、あるいは、献金をささげました。動物を連れて旅するのは難しく、自分たちが使用していたローマ貨幣は皇帝カイザルの肖像が刻んであり、神にささげるのにふさわしくないので、神殿の境内には、牛、羊鳩の売り場が設けられ、両替屋がありました。これらは、神殿に詣でる人たちの便利の為でした。しかし、貧しくも素朴な巡礼者たちに、いささかなりとも、犠牲をささげようと望むなら、売り場の屋台から犠牲の動物を買うことが強要されていたのです。

イエスは、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」と宣言したのです。マルコ福音書は、「『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。」(1117節)と言った。

17節 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。詩編6910節の言葉、「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしているので」である。
 イザヤは語った。「 お前たちのささげる多くのいけにえが、わたしにとって何になろうか、と主は言われる。雄羊や肥えた獣の脂肪の献げ物に、わたしは飽いた。雄牛、小羊、雄山羊の血をわたしは喜ばない。 こうしてわたしの顔を仰ぎ見に来るが、誰がお前たちにこれらのものを求めたか、わたしの庭を踏み荒らす者よ。 むなしい献げ物を再び持って来るな。香の煙はわたしの忌み嫌うもの。新月祭、安息日、祝祭など、災いを伴う集いにわたしは耐ええない。」(イザヤ書11113節)

 詩編51篇の作者は、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。」(同1819節)と告白している。

そもそも動物犠牲とは何であったろうか。

神はイスラエルの民に、神によって定められた一定の方法に従ってたくさんのささげものをするように命じられました。まず、動物は非のうちどころのないものでなくてはなりません。第二に、ささげものをする人が動物と自分を同一のものと認めなければなりません。第三に、動物をささげる人はその動物に死を負わせなければなりません。信仰によって犠牲がささげられるとき、自分の代わりに犠牲の動物が死に、ささげた者は罪を赦され放免されるのです。

レビ記16章に象徴的に説明されている、大祭司が二頭の雄やぎを罪のためのいけにえとしてとりました。一頭はイスラエルの人々の罪のためのいけにえとしてささげられ(レビ記1615節)、もう一頭は荒野へ放されました(レビ記162022節)。罪のためのいけにえのやぎは赦しを与え、もう一頭のやぎは罪を取り除かれ放免されたのでした。

3日で建てる神殿

19節以下 主は更に言われました。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」ここに、神殿に頼るユダヤの民があり、三日で建てるというイエスの神殿の違いがあります。今まで見てきたように、ユダヤ人の信仰が観念的なもの、観衆的なものに陥り、神殿は、犠牲の動物を売り、ローマの硬貨をユダヤの硬貨に替える両替の場となってしまったのです。ユダヤ人たちは46年もかけた年月に重きを置き、建物に対する信頼が信仰になっていました。確かに、神殿は、敬虔な祈りと礼拝の場であり、献身の場ではありますが、信仰の対象ではありません。

イエスは、自分自身が神殿であり、メシアであると宣言し、それを全て司る神を指し示したのです。弟子たちがこのことを理解できたのは、イエスの復活の時でした。弟子たちは、イエスの十字架の死によってすべてが終わったと思いました。しかし、その時に復活の主が、弟子たちに逢ってくださったのです。イエスの受難の3日は、復活という起死回生を生み出したのです。先先週にも話しました。バプテスマのヨハネが、イエスが歩いて来るのを見て「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」とよびました。イエス・キリストの十字架の死は、私たちの罪を取り除く、犠牲の死でした。これを信じる時、私たちの罪は全て許されたのです。主イエスの十字架の死によって、小羊を、山羊を、鳩を犠牲にする必要はなくなったのです。

イエスのしるしを見て多くの人が信ずる

23節以下 過越の間、祭りに集まる群衆の間でイエスはエルサレムで過ごされた。人々はイエスのなさったしるしを見て多くの人が信じたのです。ここでなされたしるしは、病気を治された、からだの不自由な人を直されたということでしょう。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかったのです、 

彼らが、主イエスの名を信じ、主イエスこそ救い主と信頼したのに、イエスは、彼らを信頼しなかったのでした。イエスは、彼らを信用して、御自分を彼らに任せることはなかったというのです。

その理由、イエスは何が人間の心の中にあるかを良く知っておられた。だから信用されなかったのです。

心の中を見る主

ある先生が引用されていますが、宗教改革者ルターは、この個所について2度説教をしたと云います。

ルターは、アウグスティヌスもまた罪を犯したという言葉を使い、その後で、「Me too」(私もそうです)と語ります。「わたしも信用できない人間だ。わたしも時々怒るから、腹を立てる人間は信頼されないというのです。ルターは、エレミヤの言葉を引用します。「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。 心を探り、そのはらわたを究めるのは主なるわたしである。」(17910節)

エレミヤは、この節の終わり、「あなたを離れ去る者は、生ける水の源である主を捨てたからだ。」(13節)

生ける水の源、神から流れる生ける水に触れることなく、そこから離れてしまった。神との生ける交わりを失ってしまった。私たちが過ちを犯すとき、実はそのもっと深い所で、主イエスに対する信頼を捨てている。

もともとイスラエルの神は、形あるものよりも、ないものを重んじる。目に見えるものではなく、心に感じるものである。見えるもの、形あるものを求める私たち人間は、神との心の触れ合いを失ってしまったわたしたちがそこにありました。

エレミヤ書31:31節以下には、「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 

エゼキエル書3626節以下、 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」

この後の3章で、イエスは、ユダヤの指導者ニコデモに言われた。「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」(33節) 人は己の罪のために、自分の力で神を信ずることはできないのです。真のしるしである、過越祭でささげられる神の小羊、イエスの十字架の死と復活、復活における新たな命に与らねば、新たにうまれることはできない。復活の命に与ることも、聖霊の力を受けることもできないのです。

 イエスの弟子たちは、イエスが神殿で語り、ユダヤ教の指導者と対峙した光景、群衆が感嘆し、感動しているのをみていました。しかし、イエスは、一時は熱中しても、感動しても、その出来事に魅せられているだけだということを十分知っておられた。誰一人、イエスの弟子でさえ、イエスの御業が指し示している道を理解していないことを、自分が十字架の受難を語れば即罪に自分の許を離れてゆくことを、今熱心なその群衆に裏切られて、極刑を受けることを知っていました。

 イエスは、人の心の気まぐれさ、不安定さを知っておられました。イエスがしていることが、神の御心であり、愛であることを、告げているにも関わらず、 私たちはなかなか気づきません。 そのような私たちの心を主イエスは見抜かれているのです。

 福音書記者ヨハネは、師であるイエスが、あの時からすべてのことをご存じだったのだ。弟子ヨハネは感動しつつ記しているのです。