日本キリスト教団 東戸塚教会

聖書 ヨハネによる福音書12章1~8節

12:01過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。 12:02イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。 12:03そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。 12:04弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 12:05「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 12:06彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 12:07イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを…..取って置いたのだから。 12:08貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

  過越しの祭りの6日前、木曜日、イエスは、エルサレムから3km離れたベタニヤに行かれた。エルサレムは、過越しの祭りを迎えつつあった。この前の1155節には、「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた。多くの人が身を清めるために、過越祭の前に地方からエルサレムへ上った。」とあります。 過越しの祭りに多くのユダヤ人がエルサレムに向かい巡礼の旅をしました。

 この祭りに参加するためには、あらかじめ汚れから清められる必要がありました。律法の規定(民数記1911節以下)によれば、人の死体や骨、墓などに触れた場合、7日間汚れるということがあり、人々は、早めにエルサレム神殿に上って清めを受けて、祭りに参加する準備を整えるのであります。 エルサレムの家庭では、エジプト脱出時の過越しの準備さながらに、犠牲の羊を屠り、種無しパンを焼き、食事のための苦菜を集めるのです。総出で家を掃除し、必要な買い物をし、シナゴーグや神殿を飾り、仕事を片付けた。こうして、過越しの祭りに備えました。

 インゲボルグ・クルーゼが聖書の女性について描いた物語の中で、ベタニアのマリア 塗油のくだりにはこうあります。

この年の過越し、この年の大祭司カイアファが長老たちを召集し、緊急議会を開催した。議事は、ナザレのイエスのことであった。無名のラビ、イエスが民衆の間に、予想以上の共観を呼んでいることに多くの議員が不安を抱いた。イエスがエルサレムに入城した時の民衆の熱狂的な歓迎ぶりに彼らは驚いていた。エルサレム神殿でのイエスの信じられない行動、また、神をも畏れぬ言動は、既に、許容限度を超えていた。自分たちの名声を守るために態度表明が必要であった。最高峰員夫議員たちは、ナザレのイエスの一件について、興奮した面持ちで討論した。結果は予想通り、意見の一致を見た。最高法院は、ナザレのイエスに死刑を求刑する。遅くとも、過越しの祭りの始まる前に。急ぎ逮捕したいが、民衆に反乱が起こるとまずい。極秘裏に、イエスの居所を探し、逮捕せねばならない。

 

祭りの6日前、イエスの一行は、ベタニアのマルタ、マリア、ラザロを訪問した。イエスのために、夕食が用意され、マルタは、忙しくその準備にあたっていた。ラザロは、イエスと共に夕食の席についていました。

 3節、そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

 マルコやルカにもイエスに香油を注ぐ記事があります。違いは、イエスに香油を注ぐ女の動機です。ルカにおいては、罪ある女が、罪を赦されたことに感謝の念を抑えきれずに、香油の入った石膏の壺を持って来て、 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。周囲が驚くような方法でこの女は感謝を表した。(ルカ738)

 マルコには、動機が述べられていない。しかし、イエスは、この女の行為を、「この人はできるかぎりのことをした。つまり、前もってわたしの体に香油を注ぎ、埋葬の準備をしてくれた。はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」(14章8~9節)

 ヨハネの記事に戻りますとと、マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ(326g)を持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐったのでした。

 イスラエルと香油 砂漠の民にとって香油は欠かせない

 喜多川信先生は、エジプトの砂漠でガイドが香油を塗るように渡されたと云います。 当時のエルサレムでは、足に香油を塗るのは異例のことです。王の即位でも、家にお客様を迎える時にもそうはしません。敬意を表してお客様に注ぐときも髪に一滴注ぐくらいです。この記事の背景には、主イエスが、油を注がれた存在、メシア(キリスト)であることを強調する行為、また、イエスの洗足の行為との関連も指摘だれます。

 「家は香油の香りでいっぱいになった。」 英語で香油の香りは、フレグランス 良い香り、芳香、香水を総称します。 家中が香油の芳しい香りで満ち溢れた。香りは、ギリシャ語のオスメーです。著者ヨハネがオスメーを使う前に、パウロは、コリント214節以下、「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。」とオスメーを使っています。

私たちはキリストによって神に献げられた良い香りです。初代教会の人たちは、信仰の世界をこのように表現しました。私たち一人ひとりの小さな信仰であったとしても、その信仰の中に、神の香りがあるというのです。

 著ヨハネ者は、マリアの純粋な美しい信仰の業が、注がれた香油と共にその家を香りで満たしたと表現したのです。

 しかし、マリアの行動に、イエスの一行の会計係をしていた弟子のイスカリオテのユダが異論を唱えます。5節、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

 ユダの言い分は、「高価な香油を無駄にしないで、300デナリオン、1デナリオンは、1日の給料です、一日1万円とすれば、300万円です。売って300万円を貧しい人々に施した方が良い。もっともな言い分に聞こえます。ユダは、口で貧しい者のためとか言ってますが、自分から献げるのではなく、自分が献金をしているかのように装っているのです。「そうするのは、盗人と同じだ」厳しく言われています。

主イエスのために生きるということは、他人を利用することではなくて、自分自身が主イエス・キリストに直接、奉仕することなのです。マリアは、意識しなくても、その信仰的感覚により、イエスの十字架の死を感じ、そのために香油を注いだのです。

 マリアは純粋な思いで、この香油をイエスに捧げました。マリアは、高価な香油のすべてを捧げてその信仰を告白したのです。物で人間の偉大さや価値は判断できません。しかし、それをどのように用いるかによってその生き方を示すことができます。マリアにとって、この香油は、彼女の財産のすべてといっても過言ではないでしょう。そのすべてを捧げたことをイエスは、受け入れます。レプタ2枚の女の物語を思い起こします。ルカによる福音書2114節、「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」 すべてをささげる者を主は受け入れられます。

7節以下、イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを…..取って置いたのだから。 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

イエスは、この香油が自分の十字架の死の葬りのためであったと云います。香油を塗った目的は、イエスの埋葬の日に成就するのです。その時には、アリマタヤのヨセフとニコデモが香油を用意しました。

 マリアは、イエスの葬りの準備をしたのです。

 

 8節、貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

 イエスの呼びかけは、「わたしといつも一緒にいる」こと、イエスと居所を共有する」ということです。昔、商社の人と米国に出張したとき、入国審査官の問いに、何の目的で入国するかは、観光、そのあと聞かれたら、同行の先人と「together」(一緒に、共に、連れ立って)と言えばよいと云われ、それですべてを通し、語をきちんと話せない私には便利な言葉になったことを覚えている。イエスと一緒に、共にいることが大事なのです。

ここで、イエスと居所を共有することは、貧しい人々と居所を一緒にすることにつながります。

 マリアは、イエスの足に香油を塗り、自分の髪でその足を拭うことにより、その葬りの業により、イエスと居所を共にしたのである。弟子たちは、

イエスの十字架の死を受け入れず、イエスと一緒に行動していたが、その心は離れていた。マルタは、イエスに夕食を振る舞うことに心を奪われていた。ここでは、マリアのみが、イエスと居所を共有することを願ったのでした。 主イエスは、ご自身においても然りである。「見よ、私は世の終わりまで、あなたがたとな共にいる」(マタイ福音書2820節)なのです。キリスト教教理、倫理を問う前に、イエスと居所を共にする掛け替えのない関係において、イエスをキリスト(救い主)として受け入れることを求められていると思います。

  

 しかも、この夕食の席に甦ったラザロが、同席していたことが、ヨハネの記事に余韻を与えている。そのラザロの甦りの記事で、マリアについて、112節で、「このマリアは、主イエスに香油を塗り、髪の毛で主の足を拭った女である」と言及されています。今日の香油の記事を先取りしています。ラザロはイエスによって、死から生命へ呼び戻された者であった。彼は、自分の存在を通して、イエスの救いを人々の前に証する人物であった。この後で、それ故に、ユダヤ当局から命を狙われるのです。