日本キリスト教団 東戸塚教会

「誰が救われるのか」  牧師  藤田 穣
(マタイによる福音書19章16~30節)

マタイによる福音書19章16~30節
19:16さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」 19:17イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」 19:18男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 19:19父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 19:20そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 19:21イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」 19:22青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 19:23イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 19:24重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 19:25弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 19:26イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。 19:27すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」 19:28イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。 19:29わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。 19:30しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

今日の箇所も何回か学んでおります。金持ちの青年、マルコでは、金持ちの男、ルカでは、金持ちの議員であります。金持ちであることは一致しています。このひとりの金持ちの青年が、「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」とイエスの許に来ます。
永遠の生命とは、熱心なユダヤ教徒が願い求めているもので、「来るべき世」において、「ある者は永遠の生命に入る」(ダニエル書12章2節)
天国において永遠の生命に入るとあり、「主を畏れる者は永遠の生命によみがえる。その命は主の栄光を受けもはや終わることがない。」(ソロモンの知恵3章12節)と考えられていました。
新約のヨハネによる福音書6章には、「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」(ヨハネによる福音書6章27節)とあります。

この青年は、どんな善いことをすればよいのかとイエスに尋ねました。イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と聞き返した。掟とは律法・十戒のことをいう。
イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」 そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」 イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。
外典のヘブライ人による福音書には、この続きが書かれている。「しかし、この金持ちの男は頭をかきはじめた。やりたくなかったからである。そこで、主は彼に言われた。「何故、あなたは、自分は律法と預言者の言葉を守っているというのか。律法には、自分のようにあなたの隣人を愛しなさい。と書いてあるではないか。ごらんなさい。あなたの兄弟アブラハムの子供たちは、ぼろを身にまとい、飢え死にしているのに、あなたの家にはよいものが満ちているではないか。そして、あなたはこの人たちに何も与えていないではないか。」
この青年は、自分で律法を守っていると云った。律法主義の立場ではそうであったかもしれないが、精神上、彼の隣人に対する態度は間違っていた。だから、イエスは、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」
この青年は、善いことを積み重ねることによって、永遠の生命を得られると信じて来ました。自分のできる限りのことはした。それでも納得できないから来たのでした。このうえ、何か、することはないのか。
この青年は悲しみながら立ち去りました。彼はイエスの言葉に怒って立ち去ったのではありません。理解したけれども、それに従うことが出来なかったのです。自分の財産を投げ出すことはできない。
マタイの完全になるに対し、マルコ福音書では「あなたには欠けているものが一つある。」(マルコ福音書10章21節) 文語訳では、「汝なお一つを欠く」なのです。かけがえのない一つです。この青年は、自分を明け渡すことが出来なかった。永遠の生命は、努力によって与えられるものではありません。神からの福音、恵みの賜物として与えられるのです。そのことが分かれば、自分の生きる拠り所である善行、財産、業績から解放され、恵みの喜び、感謝のうちに生きれる筈です。
青年は、自分を明け渡して、イエスに従うことが出来ずに悲しみのうちに立ち去るのです。大事なことは、真の救いが、永遠の生命が真の救い主。神から、神の御子からくることを知って、御子イエスに従う事です。
マルタとマリヤの姉妹の記事で、イエスが言われた「必要なことはただ一つである。マリヤは良い方を選んだのである。」(ルカ福音書10章42節)マリアは主の足もとに座って、主の話に聞き入っていた。主の福音の中にあることが大事なのです。主イエスと共にある、神とともにあることが大事です。
わたしたちにおいても然りです。
永遠の生命とは神御自身が与えられるものである。永遠という言葉アイオーニオスは、神にふさわしいもの、神に属するもの、神の特質という意味がある。神御自身の特質は、神がわたしたちを愛して御子イエスをこの世に与えられたことである。永遠の生命の本質は、落ち度なく掟、律法を守ることではなく、この神の愛、恵に応えることである。

23節以下、エスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。 イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
金持ちの青年が悲しみながら去った後、イエスは弟子たちに言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。 19:24重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」ラクダは、中近東で一番大きな動物です。針の穴は、それに対して穴のないかでも最小のものです。らくだと針の穴の対比は唐突にも思えます。いろいろな解釈があります。らくだのギリシャ語は、カメーロスで、舟の引き綱(カミロギ)で、ギリシャ語で区別がつきにくい発音となります。主イエスは、金持ちが神の国に入るのは、舟の引き綱が針の穴を通すほど難しいと云われたのかもしれません。しかし、ラクダが針の穴を通ると比喩した方が極めて分かり易いと思います。
弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。弟子たちは、イエスの云ったことについてゆけません。イエスは彼らを見つめて言われます。この「見つめて」はイエスのまなざしを想います。先の金持ちの青年に対するまなざしにもあります。マルコ福音書の10章21節では、イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。」とあります。金持ちの青年にとって致命的な言葉ととられる言葉を、ぶつける時にイエスは目を留め、いつくしんでおられたのです。今、イエスは新しい展開をはかろうとしていますが、いつくしんで、弟子たちをみつめられたのです。
つまり、金持ちが財産を捨てて、イエスに従うということは、人にはできないことを明言されたのです。金持ちの青年が悲しみながら立ち去ったのは無理からぬことです。弟子たちは、青年とは異なります。
弟子たちは貧しき人たちが大半でしたが、彼らにも捨てがたいものがあるのです。弟子たちにとっても、捨てがたいものがあったはずです。
捨てがたいものを捨てることは、人にできないということをイエスは言われたのです。 「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。弟子たちは、イエスの云ったことについてゆけません。イエスは彼らを見つめて言われます。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。
救われるとは神との正しい関係に戻ることです。神から離れて生活している者が、罪赦されてもう一度神と共に歩むことです。主イエスは、神さまとの正しい関係に戻るのは、善行や財産や私たちの努力によらない。人間の力ではどんなに努力しても神さまの許に戻れません。神さまによるしかありません。神さまが救いを与えてくださるのです。
私たちが神から離れている自分の罪を認めて神さまに告白し、悔改めて神さまから遣わされた御子イエスを救い主として受け入れて、神さまに立ち帰ることです。私たちは神さまの恵みがなかなか分かりません。何かしなければと思うのです。幼子のごとく素直に神さまの愛を受け入れることが出来ません。
ヨハネによる福音書3章の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3章16~17節)
イエスが弟子たちの心の中をじっと見つめていたとき、何を考えておられたのでしょうか。あなたがたは救われる。そのことが分かるか。神にできないことはない。あなたのような者も救われるでありましょう。
使徒パウロのことを思います。彼も金持ちの青年のように、掟を守る
ファリサイ派の人間でした。フィリピの信徒への手紙3章4節以下、
「 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」(3章4~8節)
パウロがここで語っている地上の富は、物質的な富というより信仰者の富です。パウロも金持ちの青年のように信仰の富である掟、律法を求めて完全を期して生きていたのです。しかし、クリスチャン迫害のためダマスコに向かう途上、復活のキリストが彼に出会ってくださったのです。彼の望みは、「キリストを得、 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。3:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、3:11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。(同3章8~11節)
復活のキリストが出会ってくださったお陰で、キリストのうちに永遠の生命を見出す者とされたのです。金持ちの青年は、自分で見出そうとしました。
イエスは弟子たちを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。19:27すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」

ペトロらしい申し出です。ついては、何を頂けるのでしょうか。ペトロの思いが暴露されます。ふつうなら、イエスに叱り飛ばされるようなペトロの言葉です。
28節 イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。 わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。
弟子たちは家族を捨ててイエスに従ってきました。世の終わりが来てイエスが栄光の座に着かれる時には、ペトロをはじめとして、12弟子をきちんと処遇されるというのです。彼らもイエスの栄光の座に着くということです。さらに、「永遠の命を受け継ぐ。」ことが約束されます。
すてがたきものを捨てる それは、痛くもかゆくないものを捨てるということではありません。捨てがたいもの、捨てることが痛みであるようなものを捨てる これが十字架です。 16章24節に、「それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。」
自分を捨てて十字架を負うて従ってきなさい。その前に、神が捨てがたいものを捨てられたのです。独り子イエスを捨てられたのです。捨てることが痛みであるものを捨てたのです。それが十字架です。

30節 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」 後のものとは誰でしょうか。次週、学ぶ午後5時にやとわれた最後の者かもしれません。悲しみのうちに立ち去ったあの金持ちの青年かも知れません。救いの可能性は、神さまの忍耐のうちに残されているのです。