「ゲツセマネの祈り」 徳田 信 牧師
聖書:ルカ福音書22章39~53節
皆さん、はじめに、ひとつ想像して頂きたいと思います。私たちが何か不当な目に合ったとします。実際、生活していれば、多かれ少なかれ、そのような場面に出会うものです。その時、相手を簡単にやっつける方法があるとしたらいかがでしょうか。それを用いないでしょうか。何もできないならば諦めがつきます。でも、もし相手をやっつけることができるならば、たとえクリスチャンらしくないと言われようと、やっつけたいという誘惑にかられる。よい悪いは別にして、一般的な感覚だろうと思います。しかしその誘惑、相手をやっつける誘惑に打ち勝たれたのが、主イエス・キリストです。
今日から受難週に入りました。3年ほどの間、ガリラヤ地方を中心に活動していた主イエスですが、最後ついに首都エルサレムにやって来られました。その時、人々はナツメヤシを手に持ち、道に敷いて、子ロバに乗って来られた主イエスを出迎えます。そのことを覚え、今日は棕櫚の主日と言われます。
主イエスははじめ、大歓迎を受けました。しかし数日後には十字架で殺されることになります。それから三日目に復活するのですが、これらのことすべて、ホンの一週間の間に起こりました。
私どもキリスト教会は十字架をシンボルに掲げます。伝統的に、私たちは主イエスが十字架に掛かってくださったおかげで、罪赦され、救われるのだと告白してきました。その意味で、主イエスが十字架にかけられた聖金曜日、受難日は、確かにクライマックスです。しかし主イエスは、何か当たり前のように、十字架に向かったわけではありません。そこには決断がありました。十字架にかかるという大きな決断があったのです。その決断の時こそ、今日のテーマである、ゲツセマネの祈りの時でした。
少し流れを確認したいと思います。主イエスが弟子たちともに最後の晩餐をしたのが木曜日です。そしてその晩餐を終えた後、祈るために、オリーブ山という小高い丘のような場所に向かいました。
ルカ 22:39~40
イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
オリーブ山はエルサレムの町はずれにありますが、そこは庭園のような場所で、ゲツセマネの園と呼ばれていました。ご自分の死を予期していた主イエスは、弟子たちと共に祈ろうとされました。
注目したいのは「いつものように」「いつもの場所に」という表現です。おそらくユダヤの祭りでエルサレムに上るたびに、定期的に訪れていたのでしょう。よく知っている場所だったため、夜中で電燈がなくてもたどり着けたのかもしれません。
とにかく、主イエスがいつもここを訪れていたことは印象的です。主イエスは神の子と言われます。しかしそのような主イエスであっても、同じ場所、同じ時間に、祈りの時を持っておられました。
さて、弟子たちに祈りなさいと仰った主イエスですが、ご自分は弟子たちから少し離れたところに向かいました。
ルカ 22:41~44
そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
〔すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕
血のような汗を滴らせるとは、すごい表現です。必死の思いで、祈りに打ち込んでいた様子がうかがえます。では一体何について祈ったのでしょうか。「この杯を取り除けてください」と祈られました。
この杯は大変苦い杯です。十字架という杯です。主イエスは、まもなく自分が捕えられ、殺されることが分かっておられました。主イエスは父なる神に、御心ならば助け出してくださいと祈ったのでした。このような祈りをする主イエスを、皆さんはどう思われるでしょうか。
ある人は、主イエスの死は大変見苦しいものだと言いました。哲学者のソクラテスは、文字通り苦い杯である毒の入った杯を差し出され、それを平然と飲み干して死んだそうです。そんなソクラテスの姿と比べるならば、イエスは死を前にしてじたばたしている、潔くないと言うのです。皆さんはどう思われるでしょうか。
主イエスはなぜこれほど苦しまれたのでしょうか。一つには、主イエスがまったき人間であり、そして人間として深く人々と関わっておられたからです。
ペトロはホンの少し前、主イエスのエルサレムに向かうとき、大見えを切りました。たとえ殺されそうになったとしても、主イエスに従うと言い切ったのです。しかしそのように言うペトロに対、し主イエスは、私のことを3度知らないと言うであろう、と告げていました。それはとても悲しみに満ちた言葉だったはずです。
主イエスとペトロ、そして弟子たちとは、3年ほどもの間、生活を共にしていました。弟子たちは主イエスを必要としていたし、主イエスも弟子たちを必要とされました。神の子だからといって超然としていたのではなく、むしろ、人々と支え支えられ合う、愛し愛され合う関係の中で生きました。親しくしていたラザロが死んだときなど、涙も流されました。
主イエスは、殺害の魔の手がご自分に迫っていることを、ひしひしと感じていました。一体だれが平然としていられるでしょうか。一緒にいて欲しいと弟子たちに願いました。しかし同時に、彼らがご自分を裏切ることも分かっていました。親密な関係を築いてきた人から裏切られること、それはどれほどの苦しみでしょうか。実際、この後すぐに主イエスが捕まったとき、弟子たちは裏切って逃げていきます。
主イエスは後に十字架上でおっしゃいました。「父よ彼らをお許しください。彼らは何をしているのか分からないのです」。
かつて主イエスを必要としていた人々、その人々のことを、主イエスも必要としました。しかし本当に必要なとき、そばにいて欲しい時、彼らは逃げ去っていたのです。主イエスは大きな悲しみを覚えつつ、しかし父なる神に、彼らの赦しを願いました。
主イエスの苦しみはまた、父なる神から捨てられるという苦しみでもありました。主イエスが働きをはじめる最初の時、バプテスマを受けた時、天の父から「私の愛する子、私はこれを喜ぶ」という声を聞きました。主イエスの働きのすべては、「私の愛する子」という父なる神の愛を原動力としていました。
しかし主イエスは、今、その父なる神から捨てられようとしているのです。親子の関係が引き裂かれるということほど、大きな悲しみはありません。十字架はすでに、ゲツセマネの園において、血の汗を流すような祈りにおいて、始まっていました。
主イエスは正直に、十字架にかかりたくない、助けてくださいと祈りました。必死に頼み込みました。しかし、父なる神は何も答えません。そしてついに、自分の思いよりも、父なる神の思いに委ねる決意をしたのです。それは諦めとは違います。文字通りすべてを父なる神に委ねるということです。そして十字架の道に進んでいきます。
ルカ22:47~51
イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
12弟子の一人であったユダが主イエスを裏切りました。弟子たちは剣で抵抗しようとしましたが、主イエスはそれをやめさせます。そして抵抗することなく捕えられたのでした。
ここの場面から、主イエスが祈りの中で苦しまれた理由として、もう一つを付け加えることができます。主イエスの苦しみは、神の子としての力を持つが故の苦しみでもありました。少し前、43節には、祈っておられる主イエスを天使が力づけたとあります。この場面、どこかに似ているのですが、ピンと来る方はいるでしょうか。
それは、荒野の誘惑の場面です。主イエスはバプテスマを受けた後、荒野で悪魔から誘惑を受けました。その誘惑とは何だったでしょうか。それは、神の子としての力を利用して、それによって人々を従わせるメシアになるという誘惑でした。
多くのパンで人々の欲求を満たしたり、政治的な権力を得たり、いかにも救い主であるというようなパフォーマンスをしたりして、手っ取り早く人びとの心を掴んではどうか、という誘惑でした。主イエスはその誘惑に勝利されました。そのとき、天使が来て主イエスに仕えた、とあります。
この荒野の誘惑の場面で、悪魔は一時主イエスのもとを離れた、とあります。しかし悪魔は、この最後の祈りの場面で、もう一度主イエスを誘惑してきたのです。だいぶ前に、パッションという映画がありました。主イエスの十字架のシーンに焦点を当て、できるだけリアルに描こうとした映画です。その映画はゲツセマネの園での祈りの場面から始まるのですが、そこで悪魔がささやきかける描写が出てきます。
主イエスは、「十字架から逃れてはどうか」と誘いを受けました。それは父なる神の御心に背を向けてはどうかという誘惑であり、また、荒野の誘惑の時と同じように、神の子としての力を使ったらどうかという誘惑です。ここで、同じ場面を描いている、マタイ26章52~54節を読みます。
マタイ26:52~54
そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。
わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。
しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
主イエスは神の子として、その超自然的な力によって敵を蹴散らすことなど造作もないことでした。天の軍勢を率いてエルサレムに攻め上り、ユダヤの宗教指導者たちもローマ帝国の軍人たちも追い出して、イスラエルの王になることさえできたはずです。
いかがでしょうか。想像して頂きたいのですが、私たちが何か不当な目に合ったとします。その時、相手を簡単にやっつける方法があるならば、それを用いないでしょうか。何もできないならば諦めがつきます。しかし逃れようと思えば簡単にできる。それは大変な誘惑であり、苦しみです。
悪魔が荒野で主イエスを誘惑したように、主イエスは、ゲツセマネの園で誘惑と再び戦いました。しかし主イエスはその力を使わない決断をしました。荒野の誘惑で悪魔に打ち勝ったように、主イエスはこの最後の場面でも、再び悪魔に打ち勝ちました。
そして、あえて無力な者として、捕えられるままになりました。力あるものとしてではなく、あえて力ないものとして歩む、それが父なる神の御心です。主イエスはゲツセマネの園で、その父なる神の御心に従うことを決意されました。主イエスの顔はもう、まっすぐ十字架に向かっています。私たちの救いのために、十字架に向かうことを決断してくださったのです。
それはひとえに、私たち一人ひとりを罪から救うためでした。罪とは主イエスが示された生き方とは違う生き方、神の愛に信頼するのではなく、力で物事をなそうとすることです。主イエスは私たちに、神の愛に信頼する生き方を、身をもって示してくださいました。
私たちが、その主イエスのご愛に深く思いを致すとき、私たちにもまた、あの悪魔の誘惑に立ち向かう道が見えてきます。そのとき人々は、私たちを通して、主イエスの姿を垣間見ることになるのです。