日本キリスト教団 東戸塚教会

説教 「慰め主、助け主を遣わしてくださる」 牧師 藤田穣

(ヨハネによる福音書14章25~31節)

ヨハネによる福音書14章25~31節

 14:25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。 14:26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。 14:27わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。 14:28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。 14:29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。 14:30もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。 14:31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」

  ペンテコステ立証祈祷会

 新型コロナ感染症の緊急事態が解除された。しかし、ワクチン、治療薬が出来るまでは、コロナ感染の脅威、コロナと共に生活してゆかなければならない。教会生活においても、対コロナの新しい生活様式を確立して行かなければならない。正しく恐れつつ歩みたい。

 今日は、ペンテコステ・聖霊降臨日の礼拝である。

 1963年、私が日本聖書神学校に入学してすぐの5月、全校生徒が集まりペンテコステ立証祈祷会が行われた。一人の生徒の聖霊降臨の証を中心に、賛美と祈りをささげる。この立証者は、新入生から選ばれる。どういう経緯か忘れたが、私に白羽の矢があたった。当時、聖霊を受けた体験もなくそのままの事実を証した。自分には、聖霊降臨の実体験はない、しかし、ここに、促されるように立ち、証をしている。自分を駆り立てるものがあるがそれが何か、私にはわからない。神学校に導かれたのもそのような力であることを話した。自分ではハラハラものだったが、同級生や先輩たちからは、よい証だったといわれた。もう50年以上前のペンテコステのことである。

 決別説教のまとめ

 ペンテコステ・聖霊降臨日ですが、教会歴で示された個所は、主イエスが、この世を去るにあたって、再び、助け主、慰め主である聖霊を遣わしてくださるとの約束された決別説教の個所です。

 13章から続く、イエスの決別説教では、イエスとの死別にも拘わらず、

イエスと弟子たちの愛の交流は断絶しないこと、むしろ、イエスの死が、

弟子たちの救いを完成に導く前進となることが語られた。父なる神と御子イエス・キリストと弟子たちの関係、絆は、いかなる事態になっても堅く守られるという宣言がなされました、なんとなく、謎めいた言葉でした。

 それをここで、福音書記者ヨハネは、イエスがいなくなったイエスの十字架の死後、父なる神が聖霊を遣わしてくださること、聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださるとイエスの言葉を伝えます。

 イエスの死後、パラクレートスなる助け主、弁護者なる聖霊が、イエスの教えを継続するであろう。それゆえ、イエスの死後、現代にいたる2000年間、絶えることなく続いた聖霊の導きが、イエスの御言葉を土台として現代の私たち、主の教会に属する者たちへも引き継がれているのである。

 週の初めの日曜日になぜ、教会で礼拝をするのか。日曜日の朝、主イエスが十字架の死から復活されたからです。礼拝をして何をするのか。加藤常昭先生は、言われています。聖霊を受けるためです。聖霊を受けると何が起こるか。主イエスのことを思い起こすのです。聖霊が働いて主イエスの言葉を御業を思い起すのです。私たちがきがつかなかったことさえを思い起こさせてくださるのです。私たちが知る以前から、神様が私たちに主イエス・キリストを通して、内を語り、何をしてくださったかを思いおこさせてくださるのです。

 神学校でも、聖書は、すべて神の霊感によって書かれたものだから(テモテ316節)、霊に感じて読むときその真理がわかると言われたものでした。将に、聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださるのです。

 

27節 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

 ここには、心を騒がせるな、おびえるなという言葉がある。この言葉は

  1. 14.の冒頭にも、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを

も信じなさい。}(1節)とある。この「おびえるな」と訳された動詞は、旧約聖書  申命記に、見よ、あなたの神、主はこの土地をあなたに与えられた。あな たの先祖の神、主が仰せになったとおり、上って行って取りなさい。恐れ てはならない。おののいてはならない」(申命記121節)また、「 強く、また雄々しくあれ。恐れてはならない。彼らのゆえにう ろたえてはならない。あなたの神、主は、あなたと共に歩まれる。あなたを見放すことも、見捨てられることもない。」(申命記316節)

 ヨシュア記にも、「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。

うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行っても

あなたの神、主は共にいる。」(ヨシュア記19節)

 イザヤ書41章10節、「恐れることはない、わたしはあなたの神、勢

いを与えてあなたを助け、わたしの救いの御手であなたを支える」

旧約聖書では、戦争の切迫により生ずる恐怖に対し、「怯えるな」と励

ましている。

イエスの弟子たちの戦いもこの世との戦い・悪魔との戦いにに直面する

からである。イエスの弟子たちは、福音宣教のなかで、敵意と憎悪、迫害にさらされることを覚悟しなければならない。

しかし、主イエスは、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの

平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」といわれました。平和とはギリシャ語の世界では、長い戦乱の時代の合間に時々訪れる平穏無事な状態を云います。日本は、74年の長きにわたって戦争がありません。昨年、即位された天皇も、昨年の815日の「戦没者を追悼し平和を記念する日」で、「先の大戦においてかけがえのない命を失った数多くの人々や遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。戦後74年人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、まことに感慨深いものがあります。以下略」 この世の平和は戦争のない平和です。また、人々の求める平和は、ルカ福音書12章19節、「魂よ、お前には長年分の食糧がたくさん蓄えてある。さあ、安心せよ、食え、飲め楽しめ」といった金持ちの農家の話があった。物を持つ平安、移植の足りた平安がある。

しかし、主イエスの言われる「わたしの平和」は世が与える平和・平安

ではないといわれる。

この平和という言葉、ヘブライ語のシャロームについて考えねばならな

い。旧約聖書において、シャロームは、身体の健康、物質的豊かさに基づく「生の充満」を表わす言葉、端的には、救いを意味する言葉である。この救いに与るためには、神と正しい関係になければならない。シャロームは、神からの賜物として与えられるものである。

イエスが与えてくださる平安は、このような神にある平安である。どん

な不安動揺の中においても奪い去られることのないものである。それは、禅僧にみられる悟りを得た心の静けさというものではない。天に帰り給うたイエスは、父なる神と共に、助け主なる聖霊において私たち信ずる者とともにいてくださり、責任を以てくださる。その御手にすべてを委ねる時に得られる平安である。十字架を信じる信仰による罪を赦してくだり、復活を信じる信仰により、死から解放され、永遠の命を約束された平安である。

30節 世の支配者が来る。主イエスは、捕まえられ、十字架に引き渡

される。死の危険にさらされる。世の支配者が来る。だが、彼はわたしをどうすることもできない。 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。父なる神のご計画、御心だけがなるのです。恐れがある。怯える弟子たちに、イザヤ書41章10節、「恐れることはない、わたしはあなたの神、勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの御手であなたを支える」「さあ、31節 立て。ここから出かけよう。」と呼びかける。十字架に向かって勇んででかけるのです。この後、十字架の死、復活を迎えます。復活のイエスご自身が、弟子たちに現れ、「息を吹きかけ、聖霊を受けよ」(ヨハネ福音書20章22節)と言われました。さらに、ご自身が天に帰られる時、

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録18節)と言われました。

イエスの復活から50日、昇天から10日、その日も弟子たちは集まり、祈っておりました。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高いところからの力に覆われるまで都にとどまっていなさい。」(ルカによる福音書2449節)弟子たちは、聖霊を待っていました。

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。「風」、「音」、「炎のような舌」など、聖霊降臨の出来事が聴覚や視覚など五感に感じられる形で描かれています。バプテスマのヨハネが、「わたしは水で洗礼を施すが、わたしよりも力ある方は、聖霊と火でバプテスマされるであろう」(ルカ福音書3章 )

「すると、一同は聖霊に満たされ、「霊」が語らせるままに、ほかの国々の言葉で語りだした」ここで大事なことは、「弟子たちがほかの国々の言葉で語りだした」ことです。様々な国の言葉で福音を語り始めたのです。聖霊降臨は宣教の開始でした。「教会は、教会形成が先になされたのではなく、準備のあるなしに関わらず、聖霊が下った瞬間から、直ちに宣教の教会となったのである。なぜなら、その教会は、聖霊の支配のもとにある教会だったからである。」(J・Gデービス 現代における宣教と礼拝)

彼らは語りたいから語ったのです。聖霊が語らせたたから、語らざるを得なかったのです。預言者エレミヤは言いました。「主の名を口にするまい。もうその名によってかたるまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心のなか、骨の中に閉じ込められて、火のように燃えあがります。」(エレミヤ書209節) 聖霊は、わたしたちを促す、強いられた恵みです。

復活者イエスは、今も、「「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録18節)と私たちに言われているのです。