日本キリスト教団 東戸塚教会

「少女よ、起きなさい」 牧師 藤田 穣
(マルコによる福音書5章43~54節)

聖書 マルコによる福音書5章21~24,35~43節
 05:21イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。 05:22会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 05:23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 05:24そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。 05:25さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。 05:26多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。 05:27イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。 05:28「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。 05:29すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。 05:30イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。 05:31そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」 05:32しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。 05:33女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。 05:34イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」 05:35イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 05:36イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 05:37そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。 05:38一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、 05:39家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 05:40人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。 05:41そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 05:42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。 05:43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

 イエスさまが、ガリラヤ湖で嵐を鎮められたという話は、町の人に知れ渡りました。「イエスさまは、すごい、イエスさまに会いたい」という人が大勢いました。イエスさまの行くところ、大勢の人が周りを囲み、なかなか近づけないほど混雑していました。
 そのなかに、どうしてもイエスさまに、会わなければという人がいました。ヤイロという人でした。ヤイロは、ユダヤ人が礼拝をするために集まる会堂で大事な仕事をする人で、町の人々から尊敬されていました。
 しかし、ヤイロには心配なことがあり、その御願いのため、イエスさまの前にひれ伏しました。 「イエスさま、娘が病気で死にかけています。まだ、12歳です。どうか、一緒に来て、病気を治してください。御願いします。」 「分かりました。行きましょう。」イエスさまは、ヤイロと一緒に歩き出しました。ところが、道には大勢の人がいて、なかなか前に進めません。「通してください。急いでいるのです。」なかなかどいてくれません。イエスさまの前にも、後ろにも、右にも左にも人がぎっしり。「早くゆかないと死んでしまう。」ヤイロは焦ります。
 その人ごみの中に、12年も病気で苦しんでいる人がいました。あちらこちら医者にかかりましたが、お金を使い果たしても、病気は治りません。その人は、やっとの思いでイエスさまに近づき、後ろからそっとイエスさまの衣に触れました。イエスさまの服に触るだけでも、きっと治ると信じていたからです。すると、すぐに、病気が治ったことを体に感じました。イエスさまも御自分から力がでたことにきづき、振り向いて「わたしの服に触った人は誰ですか」とお尋ねになりました。イエスさまの弟子たちは、「こんなに大勢の人がいるのに、誰が触ったかなんて、分からないですよ。」しかし、イエスさまは、黙って人々を見渡しています。女の人は、たまらず、イエスさまの前に出て行き、「わたしです」とひれ伏しました。イエスさまは仰いました。「安心して行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
 そこに、ヤイロの家の人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、イエスさまに来ていただくことはありません。ヤイロは、ああ、間に合わなかった。ヤイロはどんなに悲しかったことでしょう。
しかし、イエスさまは、ヤイロに仰いました。「恐れることはない。ただ信じなさい」イエスさまは、ヤイロの家に向かいました。家に着くと、人々が大声で泣きわめいていました。イエスさまは仰いました。「なぜ、泣いているのですか?その子供は死んだのではなく、眠っているだけです。」「確かにしんでいるのに。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスさまは、その人たちを外に追い出し、娘の両親とペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、娘の部屋に入って行かれました。 :41そして、娘の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、起きなさい」という意味である。 少女はすぐに起き上がって、部屋の中を歩きだした。それを見るや、人々は驚きのあまり言葉もでません。イエスはこのことをだれにも話さないようにとお命じになり、また、娘に食事をさせてあげなさいと仰いました。
 弟子たちも驚いたことでしょうね。医者も治せなかった女の人も、死んでしまったヤイロの娘も癒されました。イエスさまは、「恐れないで、ただ信じなさい」と言われました。どんな時でも信頼し、イエスさまに
願いお祈りしましょう。イエスさまは信じる人を助けてくださいます。

 お祈り
 神さま、どんな時でもイエスさまを信じてついて行くことができますように、わたしたちをお導きください。世界中の人々が仲良くくらすことができますように、暑い日々が続きます。お友達が熱中症にならないようにお守りください。 イエスさまのお名前によって祈ります。
                            アーメン

サンドイッチ構造
この箇所は、「ヤイロの娘」の話の途中に、「長血の女の癒し」の話がサンドイッチされています。しかしマルコは、この二つの出来事を一つのこととして読者に伝えようとしています。12歳のヤイロの娘が死にかけており、ヤイロは、生きている間にイエス家に来て頂くべく急いでいるのです。 しかし、この長血の女は12年の間、出血に悩まされていますが、命の危険はありません。その癒しは、今でなくても良いのです。イエスは、女の願いに応えて足を止め、この女を癒やされました。そうこうしている間に、ヤイロの娘は12年の生涯を閉じたのです。
 この二つの出来事には、共通性と不整合があります。イエスは、緊急を要す瀕死の娘の治癒を後に回し、命に別条のない長血の女を治癒されるのを先にされたのです。私たちには理解できません。家の使いの者が、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」この言葉には皮肉と非難が込められています。一刻を争う病状の少女を助けるつもりがあるなら、何故、イエスは、長血の女を癒やし、長話などしているのか。もうこの人に用はない」といわんばかりです。
 ヤイロの娘の一刻を争う出来事を中断するかのように、敢えて、サンドイッチ状態に長血の女の癒しを挿入していること、それは、人間の時と神の時の差を鮮明にしております。人間の時は、死をもって終わります。しかし、神は、「千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません。」(詩編90篇4節)神は死をも、時を超えられる存在なのです。私たち人間は、死を絶対的なものとしますが、神は死を超えて働かれるのです。人間の死を超えたところに神はおられるのです。

 イエスは、娘が死んだという報告を、聞き流してヤイロに、「恐れないで」「わたしを信じ続けなさい」と言われました。 直訳すると、「恐れることを止めなさい。ただ、信じ続けなさい」です。イエスは、娘が死んだという報告を無視し、聞き流して「恐れないで」「イエスを信じ続けなさい」と言われました。ヤイロは、この言葉に応じました。
イエスは、死が終点ではなく、途中であるかのように、ヤイロの家に足を進めます。 イエスは、大声で泣き叫ぶ人々に、「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」 と言いました。人々は、イエスをあざ笑った。
人々はイエスをあざ笑った。イエスをあざ笑う。イエスを受け入れる私たちでさえ、そうではないか。私たちの喜びや悲しみ、悩み苦しみが、死を超えた復活者イエスの存在を、救いを無視して、「騒いでいる」ことを思い知らされる。この世の思い煩いにあたふたしている私たちの生活は、不信仰でなくして、イエスをあざ笑うことでなくて、なんであろうか。

イエスは、「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言われた。 人の目から見れば死であるが、神にとっては、死は眠りである。イエスは、神の口から出る言葉のように。「娘は死んでいない、眠っているのだ」と言われた。
そして、イエスは皆を外に出し、子供の両親とペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。
イエスは眠っている子供を起こすように、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。 05:42少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。
「起きなさい」(エゲロー)というギリシャ語には、「目覚める」の他に「復活する」という意味があります。パウロは、「神がイエスを死者の中から復活させられた」(ローマ書10章9節)の復活させられたで(エゲロー)を使用しております。このイエスを信ずるならば、あなたは救われると述べています。
信仰は、どんなに小さくても、死を免れないものであるが、その死を超える命にあげられる世界が私たちのなかにあることを伝えているのです。 
ヤイロという名前は、「神の眼差しが注がれている人」あるいは、「神に呼び覚まされた、呼び起こされた人」という意味があると言われます。
その人が気が付かなくても神の眼が注がれている。その人が眠り込んでも呼び起こしてくれるということです。ヤイロの父は、この息子が生まれた時に、その生涯がそうあるように、願いを込めてつけられた名前でありましょう。娘の復活と共に、ヤイロの信仰も呼び覚まされたことと思います。

それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた、言葉を失った。

イエスは眠っている子供を起こすように、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。
人の目から見れば死であるが、神にとっては、死は眠りである。
 

 

それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。言葉を失った。 05:43イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じた。これをメシアの秘密という。ここにある出来事に示されているのは。「この人(イエス)は誰か」という問いに対する答え、「この方は、メシアである」ということです。これは、ペトロたち弟子たちにとって信仰の課題となる。ペトロは、こののちのイエスの受難予告で「あなたは、っメシアです」と告白した。しかし、それが確固たる信仰となったのは、主イエスの十字架の死、復活を経て、聖霊降臨を通して、主の宣教の委託に応えて、生涯を基督の証人として宣教するなかにある。それは、私たちにとっても然りである・

 
ヤオロの娘の癒しの出来事において、イエスは終始、ヤイロと共に歩いて下さったことです。娘の死の知らせを受けても、イエスは、ヤイロに恐れないで、信じ続けなさいと言われました。
それは、私たちの信仰の生涯においても然りです。
志澤先生が、よく引用された、不っと、ポイントという詩しかりです。
 ある夜、わたしは夢を見た。わたしは主と共に渚を歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも二人の足跡が残されていた。ひとつは、わたしの足跡、もう一つは主の足跡であった。これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、わたしは、砂の上の足跡に目をとめた。そこには、一つの足跡しかなかった。
わたしの人生で一番辛く、悲しい時であった
主ヨ、わたしがあなたに従う決心をしたとき、あなたは、すべての道においてわたしと共に歩み、わたしと語り合うと約束してくださいました。それなのに、わたしの人生の一番辛いとき、一つの足跡しかなかったのです。一番、あなたを必要としたときに、貴方は、何故、わたしを捨てられたのか、わたしには分かりません。」
主はささやかれた、「わたしの大切な子よ、…足跡がひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
マ^ガレット。f。パワーズ作
ルターは、信仰はわたしのうちにおける神の働きである」と断言している。ヤイロに言われた「ただ、信じつつけなさい」は、「ただ、神の働きを受け続けなさい「ということになる。それは、神の恵みを受け続けなさい」ともいえることである。