日本キリスト教団 東戸塚教会

2020.11.22「愛の恵み」

Posted on 2020. 3. 29

説教「愛の恵み」 牧師 藤田穣  
     (マタイによる福音書25章31~46節)

聖書 マタイによる福音書25章31~46節
25:31「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。 25:32そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、 25:33羊を右に、山羊を左に置く。 25:34そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 25:35お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 25:36裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』 25:37すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 25:38いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。 25:39いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』 25:40そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』 25:41それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。 25:42お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、 25:43旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ。』 25:44すると、彼らも答える。『主よ、いつわたしたちは、あなたが飢えたり、渇いたり、旅をしたり、裸であったり、病気であったり、牢におられたりするのを見て、お世話をしなかったでしょうか。』 25:45そこで、王は答える。『はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである。』 25:46こうして、この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである。」

閻魔堂沙羅の推理 奇譚
 NHKで放送しているドラマに 閻魔さまの娘が、父親の代わりに死人に地獄行きか天国行きかの裁きをするドラマが放送されている。原作は人気ミステリー作家木元哉太氏、閻魔堂をまかされている、閻魔沙羅は、死者を天国に送るか、地獄に送るかの裁判官。そんな彼女のもとにやってくるのは、誰かに殺され、現世に未練を持つ若者ばかり、生き返りたいと願う彼らに沙羅は、「自分の死の真相を突き止めるのが条件です」と言い放つ。死者たちは生き返るために、懸命に推理する。その中で、事件の真相だけでなく、自分が生前一生懸命生きてこなかったことを思い知る。そして、新たに生きる覚悟を固めることで己の人生を変えて行く。そのような彼らに寄り添い諭す沙羅の言葉が毒気もあり、天真爛漫さがあり面白い。
 今日の聖書箇所は、この世の御ア割の時に、私たちが栄光の座にあるイエス・キリストの前に立ち、羊とヤギを分けるように、右と左へ選び分かたれるシーンである。天国に入る前の裁きがなされる。

 マタイによる福音書は、26章からイエス・キリストの受難の出来事に移る。この25章は、イエスの最後の説教です。前の個所とのつながりからいえば、この世の終わりにイエスが来られて、最後の審判が行われる。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」
これは、当時のユダヤ人の考え方であります。神の国はこの世を離れて上方にあるのではなく、上から下へ人の子と云われる救い主によって、上から下に向かってやってくるというのです。この時、人の子は、父なる神の栄光に包まれ、天使を伴って到来し、この地上において審判を行い、この世は全く違う新天地、神の国、天国に変貌すると考えられておりました。この審判において、天国にはいれるかどうか決まります。この審判において問われる天国へ入れる条件とは何であろうか。山上の説教には、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ福音書7章21節)という言葉もありました。
 
 すべての国の民がその前に集められ、そして、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。
 この分けるという言葉は、審判と同じです。この最後の審判とは、天国に入る者とそうでないものを分けるということです。それは、この最後になるまでは、分けないそのまま混在しているということでもあります。マタイ福音書13章24節以下に、「毒麦の譬」があります。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。 人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。 芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』 主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、 主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」
 毒麦は、イネ科ドクムギ属毒麦で若いうちは小麦によく似ているという。収穫時になれば、たやすく見分けられるという。間違って食べると苦く、めまいを起こしたり嘔吐するという。
 これらのことは、最後の審判において行われるということです。
 なぜなら、それまでは、神の猶予の時であり、私たちの悔い改めの時なのです。

 イエスは、ご自身を羊飼いに例えられる。主は、すべての国民を集め、羊飼いが羊とヤギを分けるように分け、羊を右に、ヤギを左に置く。パレスチナのヤギは
黒い毛のものが多く、簡単に分けられるという。羊はおとなしい、柔和で弱い動物、ヤギは強く、強情な動物です。
 なぜ、羊が右で、ヤギが左か。イスラエルでは、右が高い地位、強さを示す。
 使徒信条の中に、主イエスは、三日目に蘇り、天に上り、全能の神の右に座し給うとある。右は、権威と力を表す。中東や中国は、右ですが、日本では、左大臣のほうが右大臣より地位が高いのです。それなのに、不思議なことに、左遷という言葉があるのは、中国の影響で、本来日本では、通用しない言葉です。
詩編には、「たといわたしが悩みのなかを歩いても、あなたはわたしを生かし、み手を伸ばしてわが敵の怒りを防ぎ、あなたの右の手はわたしを救われます。」(詩編138篇7節) 英語で右は、ライト(right)で、この言葉は、正確とか正義という意味があります。左のLEFTは、ただ、左だけです。

  34節以下、 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。 (なぜなら)お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
 すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。 いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
 
 世の終わりにおいて、問われているのは、唯一、愛の行いである。右側の人たちは、言われても何時、王に対して仕え、、愛の行いをしたか分からない。
 40節 そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
 王が言われたのは、わたしの兄弟である最も小さきものにした愛の行いは、私
にしてくれたことと云われる。
主イエスは、10章:42節で、「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、(イエスの故に)必ずその報いを受ける。」  主は全ての国民に対し語られている。
 
 最も小さなものであってもイエス・キリストが愛された者を愛することが主を愛し
主に仕えることであるlことが示されます。イエス・キリストの愛が、主イエスの愛し
ておられる最も小さきものを愛する勇気を私たちに与えてくれるのです。

 主は、全ての人々(隣人)のなかにキリストの姿をみる視点を与えられたのです。マザー・テレサが、修道院を止めて、街にでたのは、インドのコルカタ(カルカッタ)の街で、道端に雪倒れになっている人を見たときでした。その人の中に、十字架の最後のイエスの姿、「渇く」と言われたイエスを見たのでした。そして、マザー・テレサは、修道院を出て、このような行倒れの人々を、せめて人間らしく死なせたいという思いで、「死を待つ人々の家」を建てたのでした。
 マザー・テレサは、行き倒れの人の中に、信仰において、イエス・キリストを見たのでした。
  右側に分けられた人々は、気づかないままに、イエス・キリストに仕えていました。こうすれば、天国行き間違いなしと打算で行ったのではありません。
 さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」
  この物語の類似として引用されるのが、エジプトの「死者の書」にある死者の言葉です。死んで神の前に立つ者が、神に喜ばれ、満足していただける善い業をしたのだ。空腹なものにパンを、渇いたものに水を、裸の者に衣服を与えた、と語る言葉である。
 しかし、ここで特色なのは、愛の善行をなした者が、それを神の前で数えることを知らなかった。彼らは忘れたのではないだろう。愛の業が小さかったからではないだろう。一生を愛の業に生きたものでさえ、主は小さきわざとお呼びになるであろうし、彼ら自身、なした業が当然のことだったかrであろう。
 山上の説教の中に、「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。 あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。」 (マタイ福音書6章3~4節)   
 憐みの業を行ったからといって、報いを要求する道は閉ざされているのである。 また、ルカ福音書には、「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。 あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」 (同書17章9~10節)  と言われています。
私たちは、小さな愛の業さえできないが、ほんの小さな業さえそれを誇り得るとおもうところにある。それは、偽善ではないか。

 しかし、問題は、それだけではない。プロテスタントの信仰の根拠、「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ローマ書3章28節) 信仰のみの信仰がある。
 しかし、パウロは、また、「神はおのおのの行いに従ってお報いになります。」(ローマ署2章6節)とも説いているのです。
そこにあるのは、私たちが神の意志を、主イエスの意志を行うかどうかである。信仰によって神の意志に導かれない者は、自ら神の道を外れてゆくのです。

 さて、この審判をわたしたちは、どう考えればよいのだろうか?
34節にもう一度戻ろう。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。
 一方、愛の行いの成否を問われて初めて天国を継ぐか決せられるのに、この言葉は、他方、そのことは世の初めから決定されているように思われる。ここにいう、正しい右側の者たちの愛の業は、既に、御国を用意されているという恵みの事実において可能となるのである。
 私たちを造り給う神の愛の中に、恵みが祝福が、恩寵が限りなく与えられていることを想う。