日本キリスト教団 東戸塚教会

「正しく聞くこと」 牧師 杉村和子
(ルカによる福音書8章4~15節)

おはようございます。少し体調を崩しまして伺う事が出来ませんでしたが、またこのように皆様にお会いできて、とても嬉しく思っています。また、皆様にはお祈りをして頂き本当に感謝致します。有難うございました。 
さて、早いもので今年ももう2月、昨日は立春で、梅の便りもちらほら耳に致します。春ももう少しかなあと思っていましたが、半月ほど前は、日本列島が大寒波で凍り付きました。おまけにこう物価が高くなっては、お財布も心も寒さが増してしまいますね。特に食料品は生活には欠かせなく、生産者の方々はご苦労をされているようです。美味しい物を私達に届けるのには、種を撒き芽が出ると雑草を取り、良く育つよう畑の手入れを怠りません。どんなに良い種でも、土地が乾き、割れていればよい実には育ちません。それには太陽の日差しと雨も必要になります。しかしそれも日照りや豪雨では、良い土地とはならないでしょう。とても難しい事なのだと、改めて思います。

ところで、今日のイエス様のみ言葉は、マルコやマタイにも記されている種まきの例えですが、皆さんも何度も耳にしてきたと思います。イエス様はよく例えを用いてお話をされましたね。それは聞く人たちが分かりやすい様にとの思いからでした。
今回もイエス様の廻りには、大勢の人々が押し寄せておりました。その人々の人気を得るだけなら、例え話は成功したでしょう。しかしイエス様の真意は、イエス様が神の国をもたらした事を、人々に知らせ招くこと。そしてその招きを人々が受入れる様に、導くことでした。それはイエス様を信じる、と言う事に繋がります。そのような意味では、人々を喜ばせるのには、この例えは難しかったと思われます。 
それにもう一つ、イエス様には気がかりな事がありました。マルコ6:17によれば、イエス様より先に現れた洗礼者ヨハネが、ヘロデ・アンティパスによって獄に繋がれ、処刑されることが決まっていると聞いたからです。
それを考えると、イエス様ご自身にも、同じ運命が待っている事を感じていたのでしょう。 
それに対して人々が求めるのは、病の癒しや奇跡を見る事でした。そこでイエス様は神様のみ言葉を理解する人を、どの様に見分けたらよいのか、と考えたのが種まきの例えだったと思われます。 マルコやマタイに共通しているこの箇所では、神様のみ言葉が私達の心という土の中で、どの様に育っていくのか、とお話をしてきました。しかしルカは、マタイやマルコとは違った視点で記しているのです。それはこの例えの中に、イエス様が本当に求めている事が示されている、とルカは捉えました。

皆さんもご存じの様に、この種とは神様のみ言葉です。種を撒いているのはイエス様ですね。そしてその種がそれぞれの場所へ落ちるのですが、その環境によって、芽が出て花が咲き、実を結ぶのが違う事を、イエス様は話されます。ここで問題になるのは、み言葉が落ちた場所、すなわち私達の心が問われていました。
ただ、イエス様は最後に何とおっしゃっているでしょうか。
「聞く耳のあるものは聞きなさい」と言われています。「聞く耳のある者は」です。 つまり聞く気持ちのある人は、なのです。
イエス様のみ言葉を聞こう、聞きたい、という気持ちが大切なのだと言う事でしょうか。
どの様な事でもそうですが、自分の興味のある事や、自分と意見を同じにする人の話は聞こうとしますね。今の時代は便利になりました。ツイッターやSNSなどで、見ず知らずの人と交わる事が出来ます。その反面、情報の操作やフェイクニュースにもなってしまう世の中でもあります。人々の無責任な目や耳が言葉になり、世界中に溢れ出てしまうのです。またそれに踊らされる人々も沢山います。その様な環境では、本当の事でも自分が聞こうとしなければ、いくら発信しても人の心には届きません。イエス様はその様な、人の心の移ろいをよくご存じでした。だからこそ、この例えは多くを語っていますが、真実は一つなのです。
皆さんも経験はないでしょうか。 ある人が「この本は有名だよ」と言っている本を目にした時、まず手に取って目次を見たり、著者の欄を見たり、内容をザーッとみるでしょう。
何だか自分には難しいなあとか、興味のない内容であれば、その本は読まれることはありません。反対にもっと深く知りたければ、その本を買ったり、本屋さんに置いていなければ、ネットで買ったりしてでも読みますね。また、最初はよく解らなかったけれど、段々と著者の言っている事が理解できる様になり、その本の言葉は読んだ人を感動させ、もっと知りたいと思うようになるのではないでしょうか。

イエス様のみ言葉も、人々がどう受け止めるのかが問題になりますが、ここでイエス様のおっしゃりたいことは「私が話す神の言葉をどの様に聞くのか」と言う事なのです。 私達がいつも聞いているみ言葉を、どの様に聞くのか、その「聞き方」が問われているのかも知れません。
最初のみ言葉は道端に落ちた、この道端では種を受け入れる環境が整っていません。聞く心が無い者の土地には、種は入っていかないのです。み言葉の聞き方によって石地や茨にもなり、また良い地にもなると言う事です。
それには種を育む気持ちによって、種が外へ飛んで行ったり、茨に阻まれたりしてしまいます。 しかし良い地になるのにもすぐにはなれません。み言葉を何度も聞き、育つように水をやり、雑草を取らなければなりませんね。何年もかかってブドウの木を育てるように、その種に愛情を持って育んでいく、忍耐も必要になります。時には枯れそうになったり、世の中の事に忙しくて、育てるのを忘れたならば、どんな良い地に落ちても、実が実る事はなく、ましてや10倍、百倍にはなり得ません。

イエス様のみ言葉もそうです。今聞いたからと言って、人々がイエス様を理解するのは難しいでしょう。忍耐が必要でした。ずっと傍にいる弟子たちでさえ、その理由を尋ねています。イエス様が与える事と、弟子たちが求めている事に違いがあったことは、これからイエス様が歩まれる十字架への道で、はっきりとしたのです。つまり、人々も弟子たちも「イエス様に躓いたのです」 そして種まきが、土を耕す前に撒かれると言う事を、私達は気付かなければなりません。 
種まきの例えだけなら、群衆も理解できたでしょう。でも最後に「聞く耳のある者は聞きなさい」とおっしゃったイエス様のお言葉は、人々には理解出来ませんでした。そこでイエス様はイザヤ6;10を引用し、神の言葉は誰にでも分かるものではなく、預言者イザヤのみ言葉を聞いても悟らないことを、神様はご存じだと言われたのです。それ程に人々の心は頑なでした。しかし弟子たちには例えの意味を教えたのですが、残念ながら、弟子たちもイエス様の真意は分かりませんでした。

では正しく聞くとはどのような事でしょうか。
それは信仰を持ってみ言葉を受入れること、イエス様が神の国をもたらした事を信じることです。そしてみ言葉が実を結ぶまでは心に保たれて、発芽したら忍耐強く育てることです。ここから、イエス様への証と奉仕の業が生じてきます。
イエス様を告白し伝えていくのには、正しく聞かなければ、イエスさまが歪んでしまいますね。本当のイエス様のお心が間違って、自分勝手に都合よく変わってしまうのは残念な事です。
でも、人はそれをしがちになります。自分の思いが正しいと、勘違いしてしまうのでしょう。
それは語る牧師にも言えることかも知れません。み言葉を正しく聞かなければ、人々に語ることは出来ないでしょう。イエス様を自分の思い通りにしたりすれば、イエス様の本当のお姿ではなく、歪んで伝えてしまうからです。その意味ではとても責任が重いなあと、私は自戒を込めて思います。そうかといって、イエス様を全て知り尽くして語る事など、到底出来ません。知恵もなく忍耐も無く、自信も無い自分を知らされるからです。ですからここで私が唯一頼っているのは、神さまが共にいて、み言葉を与えて下さっていると信じる事だけなのです。

また私達は完全な人間ではありません。み言葉を正しく聞きたいと思っても、病の痛さや思い煩いで、うわの空で聞いている時もあります。また、イエス様の言葉がすーっと入ってくる時と、茨でふさがれている時もあります。でも、あの時はよく分からなかったみ言葉が、ある時「ああそうか、そういう意味だったんだ!」と知らされることがありますよね。
神さまがその時を与えて下さるのかも知れません。

弟子たちもイエス様と共にいながら、イエス様のお言葉が理解できませんでした。でも、イエス様の十字架の死によって、イエス様が生前なさっていた事、おっしゃっていた事、それは、貧しい人と共にいて、病の人を慰め、最も低くされていた人と生きて居りました。何よりも自分たちの為に死なれたことを、弟子たちは復活のイエス様にお会いし分かったのです。
正しく聞くこと、それはイエス様がどの様なお方かを知る事で、もあるのではないでしょうか。知る事によって、イエス様が今も生きて働き、私達と共にいて下さると信じる事が出来るのです。 しかし信仰を持っていても、人間は争いや殺戮を繰り返してしまうのも事実で悲しい事ですね。

では私達が、み言葉を正しく聞いたならどうでしょうか。それは神様との正しい関係に戻り、み言葉に従うようになるのです。その様な人が10倍にも百倍にも増えたなら、今の世の中は、もう少し生きやすい社会になるのではないでしょうか。 
「神様を愛し、隣人を愛しなさい」とイエス様は私達に教えられました。そしてご自分もその様に生きたのです。それは私達の罪を贖う為、命までも差出された程に私達を愛して下さったからです。その愛により私達は救われた事を信じるならば、誰でも良い土地になり、来年も再来年もずーっと、実を結ぶことが出来ます。なぜなら神様が共に育てて下さるからです。