日本キリスト教団 東戸塚教会

説教 「役人の息子の癒し」 牧師 藤田穣

(ヨハネによる福音書4章43~65節)

 ヨハネによる福音書4章43~54節

 04:43二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。 04:44イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。 04:45ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。 04:46イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。 04:47この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。 04:48イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 04:49役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。 04:50イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。 04:51ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。 04:52そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。 04:53それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。 04:54これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

カナのイエス

二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。

イエスはシカルの町に、2日滞在し、サマリア人に福音を宣教した後、ガリラヤへ行かれました。シカルの町からガリラヤまでは一日の行程でした。主イエスは、 今、エルサレムから故郷ガリラヤへ戻られたのでした。

04:44イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。

 しかし、ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らもエルサレムの祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさった教えと奇蹟をすべて、見ていたからである。

 しかし、ガリラヤの人々がイエスを神の子と信じた訳ではない。

 イエスは、ガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所であるカナでの奇蹟はガリラヤ中に知れ渡っていた。

 カナは、カファルナウムの西方30kmの距離があった。ガリラヤ湖は海抜―213m、カナは海抜400m、標高差が600mある。この道を

王の役人(バシリコス)がやってきた。バシリコスは、王の親族、役人の総称を指す。ここでは、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの役人であり、この役人の家には、僕、奴隷たちがいた。(51節)

 王の役人は、イエスにカファルナウムに下ってきて、自分の息子の病気を治して欲しいと繰り返し依頼した。立場からすると王の役人がイエスを訪ねることはあり得ないことです。大工上がりの預言者との接点はあり得ない。しかし、彼は、直々、30kmの上り坂を歩いて、イエスの元にやって来ました。あらゆる手を尽くしたのに、息子の病気が治らず、座して死を待つ状況、一縷の望みをイエスに託して、自分の立場を顧みず、父親として、イエスのところにやってきたのです。

 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。

 イエスは、これまでいろいろな「しるし」を示してきたのに、ほとんどのユダヤ人は、奇跡を呼ぶ男としか見ていないのです。有難い存在、それ以上には見ていないのです。ユダヤ人たちは、「イエスが神から遣わされたものであれば、神の子あることを自ら証明しなければならない。」そうしたらそれを信じる。示して見せた力がある限りこれを信じる。権威の世界、この世においては、権威のしるし、力を示す必要があります。王家の役人は、その世界に生きていました。

 しかし、ユダヤ人たちは、イエスのしるしや不思議な業を自分が理解し、神の子と承認しなければ、信じないと云う。それが信仰といえるか。

 加藤常昭先生は、ラインホルド・ニーバーの平静を求める祈りを引用しております。

 神よ、変えることのできないものを受け入れる平静な心を

 変えなければならないものは、変える勇気を

 このふたつのものを見分ける知恵を

 このわたしに与えてください。

この平静な心は、「しるしを求める信仰」からは、生まれません。 

しるしを見て信仰は生まれない。本当の信仰があれば、しるしを求める必要はない。

 イエスの病の癒しが福音書にいくつかある。会堂司ヤイロの娘、百人隊長の僕の癒しがある。 

ヤイロの娘 マルコ5章22節以下、

  会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、 05:23しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。 そして癒されたのでした。

百人隊長の僕の癒し マタイ8章6節以下 「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。 そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。 すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。 わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」 イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。 一緒に行かずに、百人隊長の僕は癒されたのでした。

 

しかし、この役人の息子の癒しでは、会堂司ヤイロの娘の癒しと百人隊長の僕の癒しとも異なった対応になっています。

 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。 役人はイエスの言葉に驚いたが、治して欲しい役人は、イエスの言葉にひるまず、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と自分の願いを繰り返した。その意味は何であろうか。「わたしは、あなたに不思議やしるしを求めません。ただ、私のところにきて、息子をお助けください。あなたの助けが必要です。」この必死の父親の願いにイエスは答えるのか。

王の役人は、信仰があったのか、どうか。イエスは彼の願いを退けられた。果たして、イエスは、役人が本当の信仰を持っているか、確かめられたのだろうか。

 第一の奇跡、カナの婚宴 母マリア ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。 02:02イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。 02:03ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。 02:04イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」 02:05しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。 02:06そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。 02:07イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。

 冷たく突き放す息子イエスの言葉に、マリアは、イエスを信じ自分の願いを押し付けた。そこに、水は良き葡萄酒に生まれ変わる奇跡が生まれた。

 王の役人は、信仰があったのか、どうか。イエスは彼の願いを退けられた。果たして、イエスは、役人が本当の信仰を持っているか、確かめられたのだろうか。

 

 50節 イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。

 イエスは言われた。「行きなさい。あなたの息子は生きる」

  列王記上1717節以下 預言者エリヤの故事を思い出します。

 旱魃預言によりアハブ王に追われたエリヤは、シドンのサブレタの女の

家で過ごした。そのうちに、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。
  彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。 彼は主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、あなたは、わたしが身を寄せているこのやもめにさえ災いをもたらし、その息子の命をお取りになるのですか。」
  彼は子供の上に三度身を重ねてから、また主に向かって祈った。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください。」 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。
エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。
17:24
女はエリヤに言った。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です。」
 

ここには、病気で息を引き取った子どもの命を主がお返しになり、子どもが生き返ったことについて、預言者エリヤは、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。
 さて、役人の息子は死にかかっているが、死んだ訳ではない。あなたの息子は生きる、生きるであろう。

 役人は、イエスの言葉に従ってカファルナウムに下って行った。 王の役人は、信仰があったのか、どうか。イエスは彼の願いを退けられ、「行け、あなたの息子は生きる」と冷たく突き放した。イエスは、役人が本当の信仰を持っているか、確かめられたのだろうか。役人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行くしかなかった。しかし、役人が、家に帰って息子が治ったことを確かめる必要はなかった。カファルナウムに帰る途中、僕たちが迎えに来て、息子が生きていることを告げたのだ。そこで、役人が息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。イエスが、「行きなさい。息子は生きる」と言われたのと同じ時刻に、子どもは回復したことを「知った」。癒しはイエスの言葉が発せられた時に起こったのだ。この「知る」はヨハネ福音書では、「信じる」の同義語として使われています。ここで初めて、役人はイエスの言葉を確信したのです。それまでは、半信半疑であったかもしれません。さらに、家に帰って、治った息子と再会し、イエスのことを告げると

家族全員が信じたのです。彼らは、「息子が治ったというだけでなく、イエスをキリスト・神のこと認め、イエスの福音を信ずる者となりました。

この役人の「信ずる」3段階をみるときに、イエスの云われた、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言う言葉が、この役人の現実を表わしているように思えます。しかし、イエスは、半信半疑であっても、不信仰であっても、役人が家に戻る前に、否、「生きる」と言った時に息子を癒しておられます。私たちが信じるより先に、そこに神の愛が先行しているのです。私たちの日常生活においても、神さまの恵みに気づかずに、生活しているかもしれません。

 福音書記者ヨハネは、見ないで信じることの困難さを知っていたからでしょう。イエスが役人の息子の所へ行かなかったのも、「しるしや不思議な業を見なければ信じない」からでした。

 復活の主イエスの疑い深いトマスへの顕現を思い起こします。

 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、復活の主イエスが来られたとき、弟子たちと一緒にいなかった。 ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」 と断言した。

ヨハネ福音書2026節以下、さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 主イエスは、疑い深いトマスに手を延ばし、傷跡に触れて確認しなさいと云われた。そのようにしても、信じない者ではなく、信じる者になりなさい。と諭された。トマスは、わたしの主よ、わたしの神よ」と叫んだ。。

 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 見ないで信ずる信仰は、弟子のトマスにしても難しい。しかし、主イエスは、見ないで信ずる信仰を示されたのです。トマスは回心し、後に、インドまで福音宣教に出かけたといわれます。

 信仰の保証として主イエスにしるしを求めることはできない。王家の役人が自分の弱さを知って、主イエスにより頼むとき、不信仰であれ、半信半疑であれ、イエスは、奇跡をもって役人の子を助けられ、本家族全員、イエスにすべてを委ねる信仰の道へと歩ませたのでした。

 この新型コロナ蔓延の世界、私たち高齢者、生活習慣病を持っている者にとって、自分の命がいつ終わりになるか、こんなに身近に感じたことはありません。しかも、この病は音もなく忍びより、感染させ、重症化させるのです。しかし、主によって生きる命のなかで生きたいと思います。

 ルターは、「明日、世界が滅亡しようとも、今日わたしはリンゴの木を植える」と申しました。自分の与えられた環境の中で、今、自分が出来ることを精一杯やるということです。

 主の示される生命の日々に、わが身を委ね、毎日を生きていきたいと思います。