日本キリスト教団 東戸塚教会

2023.12.3「神はなさる」

Posted on 2020. 3. 29

「神は なさる」  ルカによる福音書1:26~38
牧師:雲居玲子
招詞  14(マラキ3:1)
讃美歌 236(見張りの人よ)
230(「起きよ」と呼ぶ声)

教会の暦によると、今日から待誕節(アドベント)。心してクリスマスを待とうという4週間の始まりです。
先に歌った讃美歌21の236番は、夜の街の警備をしている人と、旅人との会話になっていました。 夜、辺りは真っ暗で、その地に不案内の旅人は不安です。それで、「この闇はいつまで続くのでしょう」とつぶやく。 と、警備をしている人が答えます。「東の空に 明けの明星が輝いているではありませんか。夜明けは来る、もう近いのです」と。
私達も、言わば夜を歩いています。自分自身も、この世界も。 何とかして光を得たい、見たいと思うのに、なんともし難い。   「クリスマスどころじゃない」とも言いそうな所に、それでも、いや、その暗さを目指して、一条の光が差し込むように クリスマスはやって来るのです。

今朝の聖書は、いわゆる受胎告知」の箇所です。 聖書の中でも、大変印象深いところで、何人もの画家たちが、これを描き遺しました。ダビンチを初め14人もの画家の作品がありますから、見たことがあるという方も多いことでしょう。
福音書の記者のうち ルカしか記していないのに、この場面は 大きく人々の印象に残りました。「受胎告知」。主イエスがこの世に来られるという事の予告なのですから。
しかし、ここをシンプルに読むと、これは、当時の世界の中では、本当に小さな小さな出来事であったことに気づきます。
大体ガリラヤと言うのは、ユダヤの外れの地方であって、誉れ高き(当時はですが)政治と宗教の中心であるエルサレムから比べると、小さな弱い地方でありました。そこの なんでもない一人のまだ未成熟の女性にスポットが当たります。
そこにイエスという方が宿るというと、私たちはこれは大変なことだと、そう思うわけですが、当時の世界の中では、大体たった33年間しか生きなかった、しかも、十字架と言うような、この世から抹殺されてしまうような死に方で、最期を迎えた人に過ぎなかったわけです。
軍事力にしても国家権力にしても、それに必死で抵抗する力にしても、そういうことが多く記されている世界史から見れば、マリアとイエスの出来事と言うのは、ほとんど目にも留まらないような小さなこと、ほとんど一瞬の出来事、と言って良いような小さいこと。そう言えば言えるようなことだということに 改めて気づきます。
そしてまた、キリスト教の歴史と現状を顧みさせられるのですが、教会と言うものは、この世では、いつも少数の群れです。ヨーロッパやアメリカの歴史を観ると、ずいぶん大きく見えた時もありますけれど、実際はやはり小さかった。何より、日本では、信教の自由が憲法で謳われて もう76年になるのに、キリスト教会は、社会の中で、今もって小さい存在です。 クリスチャンの数は、カトリックからプロテスタントの諸派迄すべて含めて約105万人。日本人口の 0.8%と言うことです。 私達、教会につながるものは、この課題の多い社会の中で、小さなもの、無力だと思わされることが多いです。
若い人と語り合っている時、また、実社会に生きて苦闘している方たちと向き合う時、よく問われます。 「キリスト教は、教会は、もっと発言しないのですか。何かできないのですか?」と。 単純な話ではありませんが、でも、問われていることはそのとおりですね。私たちが共通に持っている思いだと思います。

そういう私たちに、今朝、神様は、この聖書の箇所を差し出しておられます。
小さな町、ガリラヤに生きる、一人のおとめ(特に秀でているとか、信望が厚いとか そう言うのではない、普通の娘) マリアのところに 天使が来た。 そして 「おめでとう」と言ったと。
(31~33節)「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は、永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
この言葉を皆さまはどうお聴きになったでしょうか。
「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。
その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座を下さる。彼は、永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
クリスマス近くになると よく読み上げられる 聞きなれた詩の一節のような、ページェントのために暗記したセリフのような、そんな感じで スーッとこれを聞くということがあると思います。
しかし、耳と心を澄ましてよく聴くと、今、ここにはとても大きなことが言われているのでした。
先ず、内容に入る前に、当時の習慣から言うと、おとめに挨拶をするということは、一般に認められていなかったことだそうです。ですから、天使(神様のお考えをわかりやすく伝える役目をもっている者 のことを、聖書では「天使」と表現しますが)から声を掛けられた時、マリアは、そのこと自体に 大変な動揺を感じたに違いありません。
「考え込んだ」とありますが、これも、そのわけでしょう。
事の初めから、もう 特別なことが起こっているのです。
考え込んでいるマリアの心の中には、どうして私のようなものに、こんな声掛けがあったのだろう? というものもあったに違いありません。
しかし、天使は、神様は、そういう「どうして?」にはお応えになるのではなくて、神様のお考えを、グイグイと述べます。
「あなたは子供を産む。それは男の子だ。名前はイエスと名付けなさい。その子は、いと高き方、つまり神の子 と言われ、この地に住む人々に ずっと、世の終わりまで、救い主として働き続ける。」
このどの一項目をとっても、マリアにとっては、驚きの出来事であったはずです。
観ようによっては、これは、ズイブンな話です。 だって、マリアにとっては、全く身に覚えのないことを、一方的に 急に聞かされ、その上、その子の名前まで、もう決められているというのですから。今の世界でこんなことが実際にあったら、人権蹂躙で訴えられるようなことですね。 でも、ここで起こったことはそう言うことです。
マリアは、自分にはわからない部分がたくさんある。自分の理屈では 合点がいっていません。それも、ふしだらな女性だというイヤなレッテルを貼られかねない、これを受け入れるということは 自分に不利なリスクを負うことになる事柄です。
ところがマリアは、これを受け止めました。「お言葉どおり、この身になりますように。」と。
これは何なのでしょう。
自分には まだわからないことがある。全部合点がいったわけではない。あり得ないだろうと思うほど、私たちの心は実は 暗いのです。そのくらい押しつぶされています。本当の意味で 希望を持つということは実に難しい。 結構機嫌よく、クリスマスを祝うにしても、でも、心底から、その喜びを嚙みしめるというのは、実は難しいのです。
けれども、マリアには 分かったことがありました。
それは、神様が、自分に 直接語りかけてくださっているということです。 それはわかる。遠慮会釈なく、グイグイと私に向けて、何かを差し出そうとしていてくださる。神様が、私と関わっていてくださることが、マリアには通じたのだと思います。
そうなのですね。神様は、ガリラヤの一人のおとめ マリアと向き合うことによって、彼女の中に、このようにして、ご自身の救いの業を表してくださったのです。
私には、よくわからないところがある、けれども、神様が まっすぐ私に関わって下さり、私に救いを下さろうとしている、と言うことは確かだ。マリアはそのように信じ、それに自分を掛けたのでした。
地に生きるすべての人を救うために、神様は、イエスという一人の方を、マリアから生まれさせなさったのです。   マリアは、それを受け止め、それを信じることができました。
自分の現実を見れば、「夜明けはまだか。 いつまで続く この闇の夜は。」と、夜の見張り人に聞きたくもなります。
力だけでは乗り越えられません。知恵だけでも乗り越えらえない。大事なことを貫くこともできない。敗れ、弱さ丸出しです。
こうなれば、闇の中です。
けれども、「来ますよ 朝が、必ず来ます。」と見張り人は応えるのです。 クリスマスには、神様が、闇の中に一筋の光を下さいます。マリアによって 御子イエスがこの地上に来られるということが起こるのです。

ありえない、とマリアが思ったことも、実は、「神にできないことは何一つない」(37)のでした。事実そうでした。 神は、なさる。 マリアはそれを信じて、それにかけて、「では、お言葉どおり この身になりますように」と言ったのです。 そして、その通りになりました。
それを聖書は先取りして、天使がこう言ったと記しています。
(30節)「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。」
できるわけがない事が、出来る。 赦されるはずの無いものが、現に赦されて、ここに居る。今は暗闇だけれど、彼方の一筋の光が射している、そういう道に立っている、「朝は来ますよ。もうすぐですよ」という声を聞きながら、ここに居る。―――これは自分の努力や頑張り、功績などによるものではありません。 ただ、神さまから差し出されるものです。 それを、聖書は「恵み」と言うのです。
実は、主イエスは、その生涯をかけて、神様の「恵み」を、身をもって具現された方です。 あの苦しみと、十字架による死、そして復活を通して、「恵み」は完結するのです。聖書は、初めから終わりまでの全体を通して、まさに、そのことを語るのですが、すでに、イエスの誕生の初めのところにも、それが、マリアに起こった事実として、語られていたわけです。
2023年前のガリラヤの町で、マリアにおこったこと。 暗闇の中でも、「神は なさる」という出来事は、2023年末を迎えようとしているこの世界でも起こるのでしょうか。これは、私たちの重い祈りです。 祈っても祈っても なお闇の中に置かれているような感覚があります。
けれども、「神は なさる」という真実は、何よっても動かされません。 全能の神であることは代わりません。では、神様は、何をどうなさるのでしょう。 ガリラヤの町のマリアになさったことは、今、どこで どのようになされるのでしょう。
神は なさる。 神は、救いのみ業を なさる。 私に於いて、神様は、それを明らかにしようとしておられます。

今年のアドベントは、この恵みの出来事に立ち返り、そこから出発して、主イエスを待ちたいのです。 「神は なさる」と。

この後、讃美歌21-230番を歌います。「起きよ と呼ぶ声」。
歌詞も曲も、フィリップ・ニコライという人の作です。宗教改革の熱気が去った16世紀後半のヨーロッパの教会が、再び愛と希望の中で生きる信仰の喜びを明らかにするために、大きな働きをした人でした。
牧師をしている時、ドイツにペストが流行り、その中で、アウグスティヌスの「神の国」を読んで慰めを与えられ、永遠の命に目を注いで作ったのが、この讃美歌です。
(讃美歌21 略解から)