日本キリスト教団 東戸塚教会

説教「神の声を聴き分ける」 牧師 藤田穣
(ヨハネによる福音書10章22~30節)

ヨハネによる福音書10章22~30節
10:22そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。 10:23イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 10:24すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」 10:25イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。 10:26しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。 10:27わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。 10:28わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 10:29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 10:30わたしと父とは一つである。」

モスキート音
年を取ると高い周波数の音が聞こえにくくなる。モスキート(蚊)音なるものが開発された。深夜、店の前にたむろする若者を退散させるための不快音である。音響機器「モスキート」は、2005年英国のステイブルトンによって発明され、この発明は翌2006年のイグノーベル賞を受賞している。
日本では、2009年以降、この「モスキート」は、深夜の公園にたむろし騒ぐ若者を退散させるために使われた。
モスキート音は、周波数17,000ヘルツの音で、年齢24歳以下の若者にしか聞こえない。60歳代になると聞こえる周波数は、10,000以下になるという。犬や猫、動物のほうが、人間よりはるかに高い周波数の音を聞くことができる。今、「モスキート音」は、ネズミの撃退用に使われているという。
神さまの声の周波数帯は、どの周波数であろうか。

神の静かなる細き声を聞いたエリヤ
旧約の預言者エリヤは、カルメル山で異教の神・バアルの預言者450人と対決し勝利しました。しかし、アハブ王の后イゼベルは、バアルの負けを認めず、エリヤの殺害を命じました。ほうほうの体で荒れ野に逃げ、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」と祈るほど追い込まれていました。。神は御手を伸ばし、食事を与え、休養させた後、エリヤをホレブの山の洞窟に導きます。主の言葉がエリヤに臨みます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」エリヤは答えた。「わたしは主に情熱を傾けて仕えて来ました。しかし、イスラエルの人々は、あなたrとの契約を捨てて、祭壇を破壊し、預言者たちを殺し、わたし一人だけ残りました。彼らはこの私の命をも奪おうと狙っています。」主は、「そこを出て山の中で主の前に立ちなさい」と言い、エリヤの前を通り過ぎて行かれた。
主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。地震の中にも主はおられなかった。地震の後に、火が起こった。そこにも主はおられなかった。火の後に静かにささやく声が聞こえた。主はエリヤに言われた。「行け、あなたの道を引き返し、…ニムシの子イエフに油を注いで王とせよ。」
(列王記19章1~18節)
エリヤは、主の静かなささやきに耳を傾けた。主はエリヤの思い込み、不安を正し、新しい使命を授けた。耳を澄まして 主の御声を聞く。
私たちもこのコロナ禍のなか、温暖化による激しい気候変動の中で、
天地の創造者、今も働かれている神の声、静かな細き声を聴かねばなりません。

22節に、そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった、とある。ユダヤの祭りは、過越祭とか、仮庵祭とか有名ですが、この神殿奉献祭は、ユダヤ人の間でハヌカー(捧げる、別名光明債)の祭りとして、現在も守られている祭りです。新共同訳は、神殿奉献祭と丁寧な訳をしておりますが、宮潔めの祭り、奉献の祭りとか言います。この祭りは、仮庵祭から3ケ月後の冬の祭りでした。この祭りもユダヤの歴史と深くかかわっております。
BC539年、イスラエルは、バビロン捕囚から、ペルシャ王クロスによって解放されました。その後、たユダヤは、200年間ペルシャの支配を受けました。そのペルシャは、BC332年、ギリシャのアレクサンドロス大王により滅ぼされます。大王は、支配下の民族に融和政策を取りましたので問題はありませんでした。しかし、アレクサンドロス大王の死後、ギリシャは4つのヘレニズム国家に分裂します。
このとき、シリアとパレスチナを支配したのがアンティオコス4世、自らエピファネス(神の顕現)と称し、神の再来のごとくふるまいました。彼は、ユダヤ人を支配するのに、ユダヤ人の大事にしていた宗教を根絶やしをはかりました。具体的には、エルサレム神殿にギリシャのゼウスの神を祀り、ユダヤ人伊礼拝を強要しました。王は、律法の書物を悉く引き裂き、隠し持つものは死刑に処せられ、また、男の子にユダヤ人のしるしである割礼を施す者を子どももろとも死刑に処しました。神殿の庭は冒涜され、神殿の部屋はギリシャ神殿にみられた売春宿に変わりました。その上、王は異教の神々のために祭壇にユダヤ人の忌み嫌う豚を捧げたのでした。
それでも、ユダヤ人が自分に従わないことに立腹して、王は、敢えて安息日に戦いを仕掛けました。「お前たちは、もはやこれまでだ。出てきて王の命令に従え、命はたすけてやろう」「安息日を汚せという王の命令など聞くか」そこで王の兵士たちは、ユダヤ人たちに戦いを仕掛けます。だが、彼らは応戦せず、「我々は潔く死ぬ。お前たちが我々を不当に殺したことは天地が証言してくれよう。」こうして、安息日に王の兵士たちは、ユダヤ人たちに襲い掛かって撃ち殺し、その妻子、家畜迄殺し、犠牲者の数は2千人に及んだ。(マカバイ記Ⅰ 19章32~38節) ユダヤ人は、安息日の律法を守って、で戦わずに多くの犠牲者を出しました。これに耐えられなくなったのがユダ・マカベウスとその兄弟たちでした。彼らは、安息日でも戦う決心をし、反乱を起こし、ギリシャの支配に勝ち、BC168年、神殿を解放しました。彼らは、汚されたエルサレム神殿を潔めて、「宮潔め」をし、神殿を奉献したのです。これを記念し、2200年後の今日も、ユダヤ人たちはハヌカーの祭りとして、クリスマスの時期に祝っております。
ヘンデルは、オラトリオ「ユダ・マカベウス」を作曲しましたが、その凱旋の音楽、第3幕「見よ、勇者は帰る」は、スポーツ競技の優勝者を讃える時に奏でられます。讃美歌1 130 「喜べや、讃えよや」は、主イエスのエルサレム入城を歌っていますが、メロデイは、この「見よ、勇者は帰る」であります。 そのユダ・マカベウスに勝るメシアを新約の時代の人々は、イエス・キリストに託したのです。
ユダ・マカベウスの物語は、旧約聖書続編 マカバイ記にあります。

23節、イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」
このユダヤ人は、イエスに敵対していたユダヤ人の指導者たちのことです。人々の関心は、「主イエスは、誰なのか」です。この問いは、2千年前の問題だけにあらず、今日、私たちに問われている問いでもあります。
25節、イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。
ヨハネ福音書には、イエスとサマリヤの女の会話があります。女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」(ヨハネ福音書4章25~26節)、また、シロアムの池で目を開けていただいた生まれつき盲人に対し、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 彼は答えた。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 彼は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。 (ヨハネ福音書9章37~38節)イエスは、ご自分を言い表すと同時に、ご自分の業について語られている。 バプテスマのヨハネの弟子たちがイエスに対し、「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』と尋ねた。 …イエスは、こうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。 07:23わたしにつまずかない人は幸いである。」(ルカ福音書7章20~23節)これは、イエスのなされたことである。

26節以下、しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからでわたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」わたしは、彼らを知っている、即ち、羊飼いなる主に知られていることは、信仰の確かさを客観的に示す。彼らは私の声を聴き分ける。聞くこと、従うことはは、主体的な確かさであり、お互いの関係を表している。
イエスの声を聞きながら、それを聞き分けられないでいる。それは、わたしの羊でないからだ。
神から遣わされた御子イエスが語っているのに、その救いの声が聞こえない。ハヌカーの祭りで盛り上がっている。彼らは、イエス・キリストの声が聞こえない。ハヌカの祭りは、クリスマスと季節を一にしている。しかし、ユダヤ人から、キリスト教信仰は、通り過ぎて行った。主に従う羊は、羊飼いである主の声を聴くことが出来る。つまり、神さまの永遠の命の声を聴き分けることができるのです。一人一人が、羊が羊飼いの声を聴くように主の声を聴き分けることが大事なのです。主の声の周波数に合わせて聞くことです。一人一人が永遠の命に至る羊飼いの声をを聴き分けることが大事なのだと云っているのです。
ユダヤ人指導者たちは、イエスの声を聞こうとしないので、イエスの教えが、彼らには福音にならない。主イエスの門前でストップしているのです。躓いているのです。彼らは、ガリラヤのナザレ出身の田舎者、聞けば大工の息子、こんな者にユダマカベウスのような宮清めができるのか、と一瞥するのです。
しかし、モーセも預言しているのです。「 あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない。」(申命記18章15節)
イエスに敵対する者は、イエスの言葉を聴こうとしない。聞く耳を持たないのです。神の声を聞こうとしないからです。神さまは、私たちに向けてラジオのように電波を送り、わたしたちに語り掛けています。しかし、神の声を聞いても、聞き分けることが出来ないのです。神の声を素直に聞くことが出来ない。それは、神の代わりに自分を神として、自らに聴いていないかということです。神の子と、聖書の教えを聞こうとしているか。
クリスチャンは、聖書のことばをを聞こうとしている人たちです。
預言者イザヤは、主の僕について語りました。「お前たちのうちにいるであろうか、主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。 見よ、お前たちはそれぞれ、火をともし、松明を掲げている。行け、自分の火の光に頼って、自分で燃やす松明によって。わたしの手がこのことをお前たちに定めた。お前たちは苦悩のうちに横たわるであろう。」
 お前たちのうちに誰が主の僕の声に聴き従うか。この僕にこそ、神の声が響き渡っている。闇の中を歩く時も、光のないときにも、この主の僕に信頼するものは、神を支えとして生きるものである。しかし、あなたがたは、その声を聴こうとしない。自分たちで火を灯し、松明を掲げている。
お前たちは、自分の火の光、その掲げる松明によって、苦悩のうちに歩むしかない。聞くべきは、主の僕として私たちのところに来てくださった方の声だ。」(イザヤ書50章10~11節)
聞くということは聞き従うということです。従うことはついてゆくゆくこと、イエス・キリストの御手の中に入ることです。
詩編23篇 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。23:02主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、23:03魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。(詩編23篇1~3節)
 私たちは、主イエス・キリストの声に従うものです。

28節以下 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。 10:29わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。 10:30わたしと父とは一つである。」
イザヤ書43章13節に、「 今より後も、わたしこそ主。わたしの手から救い出せる者はない。わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。」
わたしは、わたしの羊に永遠の命を与える。
このコロナ禍の困難ななかで、悩みの時に、忍耐の時に、これを超える望みは、私たちが永遠の命に生きることです。その約束を与えられていることは感謝です。私たちは、この世の70歳、80歳、90歳の寿命を超えたさきに永遠の命を約束されているのです。

わたしは父と一つである。イエスは死に赴く前に弟子たちのために祈っている。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(ヨハネ福音書17章11節)
イエスはここで、ご自分と父なる神が一つであるように、クリスチャン同士も一つであると考えている。