日本キリスト教団 東戸塚教会

2021.7.25「憐みの福音」

Posted on 2020. 3. 29

「憐みの福音」  牧師  藤田 穣
(マタイによる福音書9章96~13節)

マタイによる福音書9章96~13節
09:09イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。 09:10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。 09:11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。 09:12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。 09:13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

コロナ感染拡大により、本日から教会での礼拝・集会が暫く休止となり残念です.
しかし、こうして、ライブ配信で、皆さまと共に礼拝を守ることが出来ますことを感謝します。
オリンピックが開催されましたが、組織委員会において、オリンピック憲章に反するような事実が次々に露呈しております。開会式のディレクターは、過去お笑い芸人時代ののコントで「ユダヤ人惨殺ごっこをしよう」とホロコーストを揶揄したことが、米国のユダヤ人団体から指摘され、開会式前日の22日に、解任されました。東京に住むユダヤ人が、TVのインタービュアーの質問に対し「日本の方々が広島の原爆を揶揄されたらどう思いますか」と答えていました。まさにそう思います。また、オリンピック開会式、パラリンピック開会式の作曲担当者が、過去に障害のある同級生を虐待したことを武勇伝のごとく語った雑誌記事が問題にされ、開会式4日前に辞任しました。オリンピック憲章の定める権利、自由は、人種、肌の色、性別、原語、宗教、政治的意見などいかなる意見、国や財産出自、身分等の理由によるいかなる種類の差別をうけることなく、確実に享受されなければならない。
これらの発言を見るときに、本人が自己肯定するなかで、傷つけた相手の痛みを覚えない、身勝手な姿勢が見られます。

さて、徴税人マタイの招きの出来事に入ります。この個所は、この前にある「悪霊に着かれた人」の癒し、「中風の患者の罪が赦された」ことに続く、罪赦された同じ種類の事柄です。
収税所に座っているマタイが将来、イエスの使徒となることは到底、考えられないことでした。イギリスの欽定訳聖書では、マタイは、徴税人・パブリカンと呼ばれていたと記されています。パブリカンとは、パブリック、即ち、公のお金と資金を取り扱う役人ということです。徴税という仕事が始まったのは、ユダヤが、ローマに占領されてからです。 BC63年、ローマの将軍ポンペイウスがエルサレムを占領、ユダヤは、ローマの占領下に置かれ、ローマに税金を納める義務が課されました。ヘロデ大王の時代になると、彼は、独自にあらゆる物品の売買に税をかけたばかりでなく、地租、人頭税、輸出入に対する関税を課し、ユダヤ人は、ローマとヘロデ家に対し二重の税金に苦しめられることになりました。収税所に座っていた役人は、ヘロデ家直属の役人であとともに、ローマの徴税という義務を負っていたのでした。徴税人は、人々から忌み嫌われていました。ヘロデ大王はエドムの出身、即ち、ヤコブの兄エサウの子孫でイスラエルの本流ではなく、評判も良くない。そのために、マカベア王家の地を引くマリアンネを王妃に迎えております。そのヘロデ家のために徴税の任にあたる徴税人は嫌われていたのです。さらに、ローマ帝国に仕える者、異教徒との接触により身を汚す者、金銭を毎日取り扱う仕事は宗教的に汚らわしいと考えられていました。なかには法外な税を取り立てる者もいて、ユダヤ人から蔑まれていました。彼らは、法廷の証人なることもできない、一般のユダヤ人と食事をすることも赦されていませんでした。今でいえば、その行いのゆえに公民権を奪われていた存在。ユダヤ人社会から閉め出された存在だったのです。
かといって彼らが、ローマの市民権をあたえられたりして、ローマの特別な存在かと言えば、それもありませんでした。徴税人は、一般の人より、金銭的には裕福でしたがユダヤ人社会からも、ローマからも疎外された孤独な存在だったのです。
9節 イエスはそこをたち通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。
イエスが、何故、マタイを召したのか、彼を知っていたのか。また、マタイも何故、すぐに応じたのか、一切、記されていません。イエスが徴税人マタイを召したのは、彼が役人として書記役や財産管理に有能なためではありません。このマタイの文脈から見ても、彼は欠けの多い罪人の一人でした。
主イエスは、他の人々の評価や判断、非難を考慮せず、人々から蔑まれ、屑のようにみられていた徴税人マタイを招かれたのです。
マタイの当時の心境はどうだったのでしょうか。彼は孤独と寂しさをかこっていたのではないでしょうか。それ故か、「打てば響く」ようにイエスの招きの言葉に応じたのでしょうか?
10節 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
これは、マタイの家での食事でしょう。イエスは、マタイを弟子として招かれたばかりでなく、徴税人や罪びとたちと食事をされた。ここには、徴税人仲間や、恐らく売春婦というような社会からつまはじきされていた人たちが招かれていたのでっしょう。これは、当時の社会常識からすればとんでもない食事の席です。
11節 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
イエスは、社会的には、ラビ、律法の教師という宗教者です。神の国の福音を宣べ伝える者です。教師ともいうべき人間が、こともあろうに、罪人とされていた徴税人たちと食事をした。当時の一般のユダヤ人の常識からは考えられないことでした。
徴税人・罪びとたち、ユダヤ教の律法、習慣を守らぬ者が食事の席に連なる。厳密な律法に従って食事をするユダヤ教からは考えられないことです。宗教戒律に厳しい正統派と称していたファリサイ派の人々からは、とんでもないことでした。イエスの時代、徴税人や売春婦たちは、律法を守らず、律法に無知で、浄・不浄の規則を守らない罪人たちは、ユダヤ人の同胞ではない、「地の民」と呼ばれたのです。
ファリサイ派の人々は、この人たちと旅をすること、商売をすること、物を受けたり、与えたりすること、客として招かれること、招くことを禁じられていました。主イエスのように、この人たちと同席することは絶対にありませんでした。
12節 イエスはこれを聞いて、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。」と言われました。 イエスの答えは、自分は、自分を最も必要としている人々の所に行くのだと云われます。医者の行くところは、病人の家であって健康なひとたちの所ではない。
何故、イエスは罪びとを招くのか。彼らが罪の故に、神の前から失われたものだからです。この魂の医者は、ご自分の方から失われた者を探し、連れ戻すために、私たちの所に来てくださったのです。
13節 『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人 を招くためである。」
「私が来たのは、自分に満足し、自分は正しい人間だから誰の助けもいらない」と思い込んでいる人たちを招くためではない。わたしが来たのは、自分の罪を深く自覚し、救い主を必要としている人たちを招くためである。徴税人、罪びとたちは救いを必要としておりました。しかし、ファリサイ派の人たちは、自分が救いを必要とする罪びとであることの自覚しないために、自覚症状のない病人が医者の前を素通りするように救いをすり抜けてしまったのです。彼らも、神の前に罪人です。 正しい人、彼らは人を批評しても、その人を励まそうとしなかった。他人の誤りを指摘してもそれを克服する手助けをしない。彼らの指摘は、愛と憐れみからではなく、罪を責めるだけでした。罪人がどうしたら救われるか、相手の気持ちに立つことがなかったのです。

マタイは何故救われたか。徴税人のままの姿で救われたのです。罪びとは罪びとのまますくわれたのです。わたしたちをわたしたちのありのままの姿で受け入れて下さる、それが福音であり、救いなのです。もう少し、信仰的になってから信仰に入るという考えは必要ありません。
ここに、いけにえの宗教としてのユダヤ教とイエスにある憐みの福音の違いがあります。誰でもが、イエスのもとに救いを見出し、希望を持つことができるのです。
誰に対しても福音はひらかれているのです。
イエスの呼びかけは、律法による人々の隔ての中垣を突き破り、閉ざされた心の扉を開いて憐みと愛の交わりに人々を導くためでした。徴税人・罪びとと食事の席をともにしたイエスは、「律法」が「汚れ」として拒絶していたタブーを、躊躇なくご自分で引き受ける自由を発揮されたのです。
イエスの到来によって、新しい時代が始まったのです。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』(ホセア書6章6節) イエスは、単に、ホセア書の言葉を引用したのではありません。
イエスは、すでに、神の子である彼自身が犠牲として屠られて、罪びとを救うことを考えておられました。そして、十字架の贖いによって、「(イエス)は、罪びとたちの一人に数えられた」(マルコ福音書15章28節)のです。罪人の一人として死なれたのです。
ユダヤ教は、いけにえによって自分の罪を贖ってきたけれど、今や、イエスにあって新しい時代が始まり、いけにえはいらない。それが福音である。イエスと共にあるだけで私たちは犠牲をささげる必要はない。
いけにえとは、旧約宗教に留まらず、私たちがみな持っているものである。イエスの招かれる食卓は、わたしたちが、何かをもってゆこうとするのを、やめなければ招かれない食卓である。何もないから招かれるのである。何もなく、ありのまま赦されて招かれるのです。 何かを持ってゆかなければと考えるのが、ファリサイ派の人たちである。正しいという人たちです。
罪人を招くとは大事な言葉です。親鸞の歎異抄にある悪人正機(しょうき)の言葉、「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」がこのイエスの言葉に匹敵すると北森嘉蔵先生は言われます。「わたしが来たのは義人を招くためではなく、罪びとを招くためである。」
私たちは、罪びとを招くのではなく、義人・正しい人を招こうとする。これが、常識です。北森嘉蔵先生は、宗教に救いがあるとすれば、義人は救われるが、悪人は救われないという大合唱をやめさせなければ、宗教にはならないと云っておられます。

憐みとはどういうことか。高みからなされる恵み、同情ではない。神が好む「憐み」とは、一言でいえば、「彼は罪びとたちの一人に数えられた」(マルコ福音書15章28節)にある。憐れんで、その愛によって罪人の仲間になったというのです。
これがイエスの十字架の犠牲の真実です。
ここでは義人の義が崩れる。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。」(ガラテヤ書3章27~29節)
キリストにあって、奴隷も自由人もなく、男も女もなく、義人も罪びともない。人間の間にある善悪の基準はここでは通用しない。いわば、善悪の彼岸がここにある。
憐みの神の前で時間が止まる。 … 藤井孝夫牧師、
奴隷も自由人もなく、男も女もなく、義人も罪びとみな、イエス・キリストの前に招かれている。 主イエスは私たち一人一人のために来られました。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。
 「 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」(ヨハネの手紙Ⅰ 2章1~2節)