日本キリスト教団 東戸塚教会

説教 「腹を立ててはならない」 杉村 和子牧師
(マタイ5:21~26節)

アジサイが映える梅雨の季節になりました。アジサイの花言葉は「移り気」と言うのだそうですが、時間や天候によって色々変化をするからでしょうか。 さて人間の感情には大きく分けて、喜怒哀楽があると申します。嬉しい時は喜び、腹が立つと怒る、悲しい出来事には涙する、そして楽しい時には笑い心が弾みます。
一生の中で私達は数えきれない程、様々な感情を持ち日々を歩んでいますね。こんな言葉もあるくらい「今泣いたカラスがもう笑った」それ程に心は左右されるのでしょう。幼いころはそうかも知れませんが、大人になると、そうもいかないのが私達人間なのかもしれません。中でも怒り、優しく言えば腹を立てる、これは難しい感情です。しかしこれがどれ程の結果を生むのかを、今日のイエス様のみ言葉は物語っています。
イエス様が山上の説教で人々に語られたこの教えは「~しなさい」と言う教えから「してはならない」という反対命題の一つです。
今日与えられた「腹を立ててはならない」と言うみ言葉に私はハタと困ってしまいました。
私は余り怒ることが少ない方だと自分では思っていましたが、この頃腹を立てる事が多くなったなあと感じるからです。政治家のいうことや、行政の在り方、テレビでの討論など色々ありますが。そうしたら、私だけではなくその様な声をよく耳に致しました。年のせいかしらと思ったりしますが、確かにそれもあるでしょう。
でも今は、コロナのせいかなあと皆さん思っているのではないでしょうか。人々の生活の自由が制限されている「それは絶対あるよね」と頷く方が多いと思います。
このイライラは世界中に起きていて、我慢が出来ない人たちもいるんですね。この気持ちを誰かにぶつけてしまっている、右に左に、上に下に、それが人種差別に拍車をかける、国々で争いが起きているのも事実です。それは必ず弱い者に向けられます。
歴史を振り返ると人間は、戦争をしながら生きてきたと言っても過言ではありません。国と国との争いは戦争と言う多くの命を奪う行為にもなります。ユダヤ人は特に神様が戦って下さる、聖戦と捉え戦ってきました。
戦いに勝った国は負けた国の人々を奴隷として働かせ、植民地にしていた時代もあります。要するに強いものが弱い者の自由を奪って生きてきたのです。でも現在でも国の監視の下におかれた人々がいて、そこでは自由を求めて国に抗議のデモをしています。
しかし、国同士、地域社会の中で、人は他人と関わりながら生きていかねばなりません。そこには当然感情が入ります。時には腹を立てることもしばしば。それがいけないと言えば、一人で生きていかなければならないでしょう。関わらなければ腹も立たないと言う事でしょうか。
でもそれはとっても難しいですね。衣食住全てにおいて人は関わっており、その恩恵も受けているからです。しかし今でも紛争地では、田畑が戦場となり、生活が出来ず、人々は祖国を逃れ難民となっています。
さて聖書に戻りますが「殺してはならない」と言うのは十戒の一つで、殺した人は裁きを受けなければならない、その事をあなた方は当然知っているでしょう。
「でも私は言っておく」。とイエス様は前置きをして次のように戒めます。人を殺すことは勿論あってはなりません。では何故いけないのでしょうか。人を殺すと言う事は隣人との関係を壊す、その存在を否定することでそれはとても恐ろしい事だとイエス様は捉えていらっしゃるのです。だからこそ殺人に至る前にまず、隣人との関係を修復しなさい、行動を起こす前に、心の問題に目を向けなさい、と教えます。
ところで、殺すというのは武器などで、実際に手を下すだけなのでしょうか。私達は心の中で人を殺すこともできるのではないでしょうか。一時の腹を立てることが積もるとそれは憎むという感情になっていきます。
人が腹を立てるのには体必ず理由があります。勿論体の状態にもよるでしょう。でも私達はなるべくそれを相手にぶつけず、我慢をしている人も多いですよね。「腹わたが煮えくり返る」と言う表現があるくらい、腹が立つという場合も勿論あります。殺したいほど腹が立つ、この感情はそうです。殺したいほどが・・殺してしまってはなりません。
腹を立てている、と言う思いは人の外見からだけでは見えてきません。もちろん激しい怒りをぶつける人もいるでしょう。怒るなと言われても、理由によっては怒って当然、怒る方が正しい、と言う場合もあり、私達は納得出来ないのですが、でもイエス様は、理由はともかく、怒る、腹を立てることが、正しい正しくないかは人間の目から見て思う事で、神様の目から見てどうなのかと問われます。まず隣人との関係が壊れることに、神様は悲しむのだとイエス様はおっしゃっているのです。
22節になると「兄弟を愚か者、バカ者」と言う人が問題になっています。もう心の問題ではなく、言葉に、外に向けて発信してしまいます。
「愚か者」と訳された言葉は、人間として欠陥のある者と言う意味で、「バカ者」とは神様との関係において欠陥のある者、と言う意味があるそうなのです。その様な怒りの感情を隠し持って、祭壇に献げ物をしても神様は喜ぶでしょうか。献げものをすると言う事は、神様との関係を修復する事で、神様の前に立つのは、悔い改めがあり、許しを請う事でもあるでしょう。それが隣人との関係が壊れたままで神様の前に立っても、偽善であると言う事です。特に兄弟が腹を立てているのを思い出したなら、まず「行って」自分から相手に出向き、兄弟と和解をしてから献げ物をしなさい、とイエス様は戒めます。
これは当時律法をしっかり守り、献げ物も欠かさず行い、自分たちはいつも正しいと思っている、律法学者や権力者に対する言葉でもあったと思います。献げ物をしながら、心では律法を守れない人々や、献げ物が出来ない人など弱い立場の人を蔑み、差別をしている、そのままの心を神様は喜ぶだろうか、と言う批判もあるのではないでしょうか。
とは言うものの、これは私達にとっても耳の痛い事です。教会へ行き、神様に礼拝を献げる前に、兄弟と和解をしてから礼拝に臨むように、と言う事でもあるのでしょう。なかなか難しい事ですね。
「私が求めるのは憐みであって、いけにえではない」とイエス様はマタイの9章18節で、ホセアの言葉を引用して、神様の思いを伝えておられるからです。
そして25節では、もう一つの譬えをお話になりました。
裁判所に訴えられた場合のことです。内容によっては家庭裁判所へ、それが駄目なら地方裁判所、それから最高裁判所に訴えがいきます。この場合は最高法院サンヘドリンです。ここまで行くと死ぬまで牢にいなければなりません。裁判所に行くその途中でも、訴える人と和解が出来るんだよ、まだ間に合うんだよ、出来るように努力をしなさい、とイエス様はおっしゃいます。
話は変わりますが、以前私の友人がこの様なことを話しておりました。その方のご主人は昔堅気な方で、夫婦で喧嘩をし言い争いになった時、自分が悪くても決して謝らないのだそうです。今は時代も違ってきていますが、昔の男性はこの様な人が多いかも知れませんね。でもしばらくすると、なんとな~く奥さんの機嫌をとるんだそうです。ああ少しは反省しているのかなあ、とは思うものの、なんとなくすっきりしないんですね。それから友人は、けんかや言い争いがあった日は、「今日はごめんなさい。私も悪かったかも知れないわね」と言ってから寝るようにしました。それは親子でも同じで「さっきはお母さんも言い過ぎたかも知れないわね、ごめんね」と言ってから寝るようにしたそうです。その方は言うんですね「その場が少し和む気がして。もしかすると明日会えなくなるかもしれないでしょ。何があるか解らないもの。喧嘩したまま一日を終えたくないのよ」とおっしゃっていました。
それを聞いて私も見習おうと思うのですが、出来たりできなかったりで、出来ない方が多いですね。
特に今の時代は明日何があるかわかりません。無事に過ごしたとしても私達はやがて死を迎えるでしょう、それは誰もが避けられない事なのです。だからこそ、今この時からでもいいから、隣人と仲良くし平和に暮らしなさい、とイエス様は教えます。
この場合の隣人とは自分の仲間だけなのでしょうか。ユダヤ人にとっては同胞ですが、イエス様の中では異邦人も、全ての人が含まれているのです。深く言えば、敵対者であっても和解をしなさい、と勧めているのではないでしょうか。もしかすると最も和解をしなければならない人は、キリスト者に限らず、自分の敵のような人なのかもしれませんね。
自分は殺人など犯さない、と誰もが思っているでしょう。
イエス様の時代に限らず、今でも人を殺めれば裁きが待っています。
しかし、イエス様は腹を立てることも人を殺めることも、隣人との関係を壊すことに違いはないのだとおっしゃいます。 腹を立てたり怒ったりする裏には「自分は正しい」と言う思いがあるのではないでしょうか。和解が出来ないならば牢に投げ込まれる。それも自分の負債を支払うまで出られず、そこで死ぬことになるというのです。
私達の負債とは何でしょうか。神様に返すことのできない負債とは何なのでしょうか。
腹を立てることはしょっちゅう。それどころか、人を傷つけたり妬んだり蔑んだり、挙句の果ては、と数えたらきりがありません。これは神様に対する罪と言えるのです。罪と言う負債は一生かかっても贖いきれません。
その様な私達の罪を贖って下さったのは外でもないイエス様でした。
イエス様が私達の献げものとして、十字架の死を受けられました。その死によって私達の一生かけても払えない、罪と言う負債を支払って下さったのです。イエス様によって私達はその罪を許されたのです。
この様に私たちの至らなさを全て承知で、丸まんま受け入れて下さる神さまに出会い、その愛の中にいるのです。私もあなたも、また隣人も、そして全ての人々も。
その神様の許しと愛を感謝する時、私達は少しでも兄弟姉妹、隣人と共に生き、残された道を歩むことが出来るのではないでしょうか。