日本キリスト教団 東戸塚教会

ヨハネによる福音書6章41~51節

06:41ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、 06:42こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 06:43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 06:44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。 06:45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 06:46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 06:47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。 06:48わたしは命のパンである。 06:49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。 06:50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 06:51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

日本人の忘れもの 映画

「日本人の忘れ物」というドキュメンタリー映画が封切り上映されていいます。1945年太平洋戦争が終戦を迎えたとき、フィリピンや中国東北部には多くの日本人の子どもが取り残されました。戦前、フィリピンには日本人の移民が3万人いたという。敗戦を機に、日本人の父親と生き別れた子供たちが、75年を経た今も無国籍で取り残されているという。戦後、反日感情の強かったフィリピンで、山に隠れ苦しい生活を強いられてきた彼ら、彼女たちは、片言の日本語で、自分たちは日本人であることを認めて欲しいと願っている。 また、中国東北部には満州の開拓団など多の日本人いたが、敗戦後、追われ、逃げて帰国する途中、中国人に預けられた中国の日本人孤児たち、日本に帰国した人の多くが言葉の壁、差別、貧困に苦しんでいる。彼らは、週2回の帰国者同士が集まるのが唯一の楽しみだという。

 日本という国の政治のなかで、75年もの間、政治の片隅に捨て置かれた人たちがいる。私たちが知らずにいる、忘れ去られようとしている。忘れ物がある限り、戦争はまだおわっていないのではないか。

 テレビドキュメンタリーを手掛けてきた小原浩靖監督の初劇場版。

 横浜では、8月8日 シネマ ジャック&ベテイで上映開始。

 

大工の子イエスと奇跡を起こす・人の子のイエすとのギャップ

イエスが、「わたしが天から下ってきたパン」であると宣言されたので、そこにいたユダヤ人たちはつぶやき始めた。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

5千人にパンをあたえるイエスと小さい時から知るナザレのイエスとの間のギャップをガリラヤのユダヤ人たちは、埋められないでいた。

何故、イエスは天から下ってきたなどというのか。

これは、私たち現代人の問でもある。イエス・キリストは、実在したのですか。ヨハネ福音書研究の第1人者土戸清先生は、東北学院大学や聖学院大学などキリスト教主義大学でも教えられました。一般教養課程の学生に、授業の時、「イエス・キリストは、本当にいたのですか?」という問いをだした。意外なことにイエス・キリストは歴史上実在した人物であることはほとんどの学生が認めた。世界史で習ったから、イエスという人はいたのでしょう」と言います。勿論、キリスト者がいうように、「神の子」「メシア」ということに対しては、懐疑的で「そういうことは、信じていません」というのが大方の学生です。学校教育とはそこまでであるということですと言われている。

イエスの「わたしが天から下ってきたパン」宣言に対し、そこにいたユダヤ人たちはつぶやき始めた。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

この呟きは、イエスを知らない、信じていない人たちの呟きです。加藤常昭先生が、呟きについて書いておられる。つぶやくのギリシャ語は、ゴッギゾウ、英語がmurmur(マァー(ル)マァ(ル)、ドイツ語がムッレン それぞれ響きが違うが、擬音です。日本語にすれば、「ぶつぶつ」言うです。これらは、言葉になっていません。心のなかでは、「この男は何だ、怪しからん」などと言っているのです。つぶやいてぼやいている。

モーセの故事にもあります。出エジプト記1701節、主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。 17:02民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか。」 17:03しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。(不平を言うがブツブツ呟くです。)「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」 17:04モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、 17:05主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。 17:06見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。

この民の不平がつぶやきです。このつぶやきが、「わたしは天から下ってきた命のパン」であると宣言する主イエスに対し向けられるのです。

「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」

何故、ナザレの大工の息子がそのようなことを言うのか。我々は、イエスの父親も母親良く知っている。彼は学問も教養も財産も社会的地位があるわけではない。我々とどう違うのか。このつぶやきの根源は不信仰です。イエスの言うことが信じられないのです。命のパンなど夢のまた夢の話です。

:43イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。 06:44わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。

大工の子イエスと奇跡を起こす人の子イエすとのギャップ、不信仰を信仰に変えるには、自分の力では難しい。、神の力が必要である。神がイエスのもとに引き寄せてくださらなければ、人々がイエスをうけいれることはできないと言われます。

預言者エレミヤは、、「わたしは限りない愛をもってあなたを引き寄せた」(エレミヤ書313節・バークレー引用)という神の言葉を聞いた言います。このヘブライ語の引き寄せるのギリシャ語訳ヘルクエイン、このギリシャ語の「引き寄せる」には、「抵抗」という意味合いが含まれている。ヨハネ福音書2106節、イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

使徒言行録1619節、ところが、この女占い師たちは、金もうけの望みがなくなってしまったことを知り、パウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡すために広場へ引きずって行った。 (口語訳)この「引きずる」が引き寄せるの意味である。運動会などで行われる綱引きは、相手を引き寄せたほうが勝利のゲームである。その様子を見ると、引き寄せる側に対し、相手方は引きずられている。歩くのがやだと泣き出した幼子が母親に歩きさいと引きずられている姿を思う

高校時代の「電気」の教科のオームの法則を重いf出す。ドイツの電気学者はオームは、電流の強さは電圧に比例し、抵抗に反比例する。 電流I=電圧V/抵抗R 電流は電圧に比例するが、抵抗が大きいと電流が弱くなる。

神さまは、人私たち間を引き寄せようとされているがが、人間の抵抗、不信仰、罪がその引き寄せを拒んでいるのではないか。

私たちの魂を聖霊の宮として神に開き、聖霊が私たちを捕らえてくださらなければ、イエス・キリストを受け入れることはできない。、

そのために、聖書が説かれ、神さまにより教えられるところに、このことが起こる。

06:45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。 06:46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 06:47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

父から聞いて学んだ者がわたしの元に来る。イザヤ書5413節、「あなたの子らはみな主に教をうけ、あなたの子らは大いに栄える。」(口語訳)とある。学ぶと訳されているマンサノーという動詞から、派生語のマセテース・弟子という言葉が生まれています。そう考えると、学ぶというのは、先生から単なる知識として学ぶのではなく、先生の生き方とか、或いは、先生の生きる規範が示され、先生から訓練を受ける、躾を受けるということです。子どもが親の姿を見て育つのと同じです。ですから、ここでは、先生から弟子として,躾けられる、訓練されるということなのです。

単なる知識を教えられたり、詰め込むのとは異なります。神さまから、主イエスから訓練を受け、弟子となります。 十字架にかかり、死に打ち勝たれた主イエス・キリスト、即ち、復活の主に対する信仰において、神の永遠にかかわっている自分を、イエスとの関係において見出すことが、「イエスから学ぶ、教えられることなのです。聖書の学びは、イエス・キリストに弟子入りすることから始まるのです。

36節 しかし、わたしは『あなたたちはわたしを見たのに信じない』と言った。

06:46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。 06:47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。

イエスを見て信じる者が永遠の命を得るのである。

では、これまで何を見てきたのか。イエスは、「わたしは命のパンである。」「これは天から下ってきたパンであり、これを食べる者は死なない」と言われます。モーセの時代に天から降ってきたパン(マンナ)は、食べた人はいずれは死ぬ、この世の生を支えるパンでした。しかし、イエスの与えるパンは永遠の命のパンであるイエスご自身です。

これ、「わたしイエス」は、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。 1わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」 イエスを食べるとは、聖餐式のパンが暗示されています。

私たちの前に、モーセを超える方、「永遠の命のパン」であるという方がたっておられます。私たちの人生は、このパンを求めて歩み続けているのではないでしょうか。私たちは、この世において、見える確かなものを求めます。

そのようなわたしたちに、「子を見て信じる者がみな永遠の命を得る」と手を差し伸べてくださるのです。「見ているのに、信じない者にならず、信じる者になって永遠の命にあずかるように、手を広げて招いてくださるのです。