日本キリスト教団 東戸塚教会

「自分の十字架を背負って」 牧師 雲居 玲子

礼拝招詞  イザヤ書55:6,7 (招詞 No.31)
讃美歌  前 297(栄えの主イエスの)
       後 449(千歳の岩よ)
聖書箇所  マルコによる福音書8:31~38
説教題  「自分の十字架を背負って」

教会暦によると、今は 「受難節 レント」。今日は、その二週目の聖日です。 
現行の教会暦が定着したのは、4世紀になってからのようですが、この精神の大元は、初代教会の人々の信仰に在りました。 
イエス様の「十字架の死と復活」は、彼らの中で、最も重要な出来事であり、これを除いては、キリスト教の成立も存在もありません。(パウロは書簡の中で、まさにそのことを熱く述べるのですが)。 ですから、初代教会の人々にとって、イエス・キリストの死と復活を記念する「時」は、信仰生活上 最大の出来事であったのです。この大切な時を迎えるために、さまざまな準備の時と、特別な断食などの習慣を持っていたようです。 この準備と浄めが、この期間の主題であったのでした。 
ついこの間、ある教会で、親しい方達との茶の時間に、一人の方が、「コーヒーはいりません」とおっしゃいました。 日頃は、率先して所望する、コーヒー好きの方なので、みんな、え?となり、「たっぷりありますから、どうぞご遠慮なく」と声かけをする人も居ましたが、その方は、ごく控え目に、でも、たじろがずに、その意を通されました。 レントであることを覚えて、好きなコーヒーを断っておられたのです。  誰から強制されたわけでも、決まりになっているわけでもない。この時、自分は、せめて好きなコーヒーを断って、イエス様の苦しみを偲ぼうとしておられる。 現代の私たちの間では、数少ない例になっていますから、え?となるわけですが、でもそれは、初代教会の人々の持っていたひたすらさ、切実さに遡る、その方の信仰の在り方だと思います。 
後に、教会は、これを「悔い改め」の時と位置づけ、さらに洗礼の準備期間として、40日間(日曜日を除く)を教会暦の中に定めました。 現在では、世界中の教会が、「キリストの受難」を覚え、「悔い改め」の時とする時として、守っています。 わたし達も今、その暦によってこの時を過ごし、今日も、その礼拝をしているわけです。

さて、今日の聖書は、イエス様が ご自身の「死と復活を予告」なさった箇所です。
ついに「その」出来事が起こるまでに、イエス様は、三度、予告をなさいましたが(二度目:9:30~32、三度目:10:32~34)、その一回目です。
 弟子たちにしてみれば、自分たちが敬愛してやまない先生が、突然「自分は排斥されて、殺されることになっている」と、しかも、その時がもう迫っているという勢いで 言い出したのですから、衝撃を受けない訳はありません。 ペトロが、「何ということを仰るのですか。お止めください」と言った気持ちは当然です。
 しかし、イエス様は、それを叱り、しかも、「サタン、引き下がれ」(33)と言われます。 純粋に、大切な先生への敬愛の思いからだけ発した言葉の中に、イエス様はサタン、つまり、神様から人を引き離す力を見られたというのです。では、何がサタンだというのでしょうか。
 その答えは、その後 一同を 身近くに呼び寄せて語られたイエス様の言葉の中に含まれていますが、先ずは、私たちに、究めて印象的に聞こえて来る言葉に聴きましょう。

 (34)「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい。」
 この言葉を、皆さまはどのように受け止めて来られましたか?
これは、聖書の文脈から抜け出して、私たちの暮らしの中に独り歩きしているところあります。
 よく語られ、理解されているのは、「自分の十字架」という言葉を、自分が背負い込んでいる重荷、苦しみ、重圧、宿命、避けられない状況などを指していると取る考え方です。 「私はずっと、自分の十字架を負って生きてきました」と言うような言い方をします。 苦しいのです。どうしようもない。
 しかし、そうだとすれば、イエス様は、「それをおろしてはならない」と仰るのでしょうか。 どうしようもないこの重圧を、おろしてはならない、負い続けろと言うのでしょうか。 「苦しみもまた益」、「艱難辛苦、汝を玉にする」と言うのでしょうか。 
しかし、自分ではどうしようもないものを負って生きている者は、行き詰まり、押しつぶされそうになっているのです。 そんな生易しいものではないはずです。
イエス様は、「背負って」来いと言うよりも、「重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃったのではなかったでしょうか。(マタイ11:28)
 では、「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」というこの言葉は、どういうことなのだろう…と、さらに、考えて、
「自分の十字架」とは、神様によって新しく与えらえた「使命」、「意味」、「課題」、「勤め」、「任務」などの事なのかと、考え直してみることもできます。
 抱え込み、背負い込んでいた一切の「重荷」を、イエス様のもとにおろして、新たに神様が負わせてくださる「新しいリュック」を背負い直して、歩き始める、とも考えられます。 そうであれば、それは、神様から与えらえた、意味のある、光栄に満ちた、新しい「私が負うべきもの」「意味」になります。
 そうであっても、それをなぜ「十字架」と呼ぶのでしょう。その場合は、「新しい意味、使命、課題」などと言えばよいのではないか…。
 
 では、「自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい」というイエス様の言葉は、何を指し、何を促しているのでしょうか。

 「十字架」は、イエス様に於いてだけ、固有の、絶対的な意味を持っているのです。ただ 苦しみとか悲しみ、負い難い課題という、私たちの経験するような事とは違うのです。 
イエス様は、神様のみこころを語り、神様のお考えのとおりに事をなさいました。
結果、実際に、悲しんでいる人達は慰められ、疎外されて来た人は真に向き合っていただき、足の不自由な人は立ちあがり、口のきけなかった人は語り始めました。福音書には、それらの事が、幾つもいくつも記されています。 記者たちが、イエス様と言う方を伝えるためには、どうしても書き遺しておきたいという 具体例がたくさんあったということです。
しかし、この世の権力者たちにはそれがいけなかった。敵意をもってこれを排斥し、あざけり、愚弄しました。 イエス様を認めるわけにはいかないのです。 この勢いで行けば、民衆の心はこの者にからめとられるだろう。 自己保身のために、彼らはイエス様を生かしておくわけにはいかなかったのです。 
それを止めることもできなかった弟子たち、人々。
その末に、イエス様は、十字架への道を進まれました。
人間の、持つ 何ともしがたいもの、罪。
人間の、私たちの罪を赦すために、イエス様は一歩も退かれません。徹底して、そこに立ち続けられました。 それは「恵み」です。 赦していただく資格もない、むしろ裁きを受けても仕方がない者を、その罪を赦すために、そこに立ち続ける、イエス様の、恵みの意志が、ここに在ります。
「十字架」は、他にはない、イエス・キリストに固有の、絶対的な意味を持つ、その姿そのもののことです。
 
ところが、そのイエス様が、「自分の十字架を背負って、私に従いなさい」と言われました。(34)。
そうすると、「自分の十字架を背負う」とは、どういうことでしょう。
それは、イエス様が十字架に於いて、私のためになしてくださったこと、あの「恵み」の出来事を、「恵み」そのものを全部背負って、自分の身体に縛り付けるようにして歩くということです。
私たちは、自分自身を放っておくと、いつの間にか、罪の力にからめとられてしまいます。自分では、懸命に考えているつもりでも、熱く、神様を思っているつもりでも、いつの間にか、ピント外れな事を考え、神様からご覧になると、的外れな方向に思いも体も動いてしまうのです。 どうしてもそうなってしまう。 それを、聖書は「罪」と言うのです。
ペトロが、熱い思いのうちに言ったつもりの言葉の中にも、イエス様は、まさに、それを直感し、見抜かれたのです。 あの時、「サタン、引き下がれ」とおっしゃったのは、そのことでした。
救い主イエス・キリストが、私を救うためになしてくださったこと、その恵みの出来事を、全部背負って、自分の身体に縛り付けるようにして歩く。 そうすれば、どんなことがあっても、私についてくることが出来ると、イエス様はおっしゃいました。
ですから、これは、忍耐や頑張りを強いた言葉ではありません。 完全な赦しと、救いを全面的に差しだしたうえで、「これを背負って、これを体に帯びて、私についてきなさい」とおっしゃっているのです。 そう出来るように、十字架の上でそれを成し遂げ、その恵みを事実として私たちに差し出している方が、「これを しっかり体にくくりつけてくれば大丈夫、私についてくることが出来るから」とおっしゃっている。
この恵みの言葉を、深く聴き、これに従って、レントの日々を歩きましょう。