「満ち溢れさせて下さる」
牧師 雲居 玲子
招 詞 9(ガラテヤ3:28)
讃美歌 492(み神をたたえる 心こそは)
513(主は命を 惜しまず捨て)
聖書箇所 コリント二 9:6~9
今朝読まれた聖書の箇所は、9章の初めの小見出しにあるとおり、「献金」についてです。 聖書日課に示された箇所ですから、今日は全国の様々な所で、ここが読まれていることでしょう。
ずっと以前、私がキリスト教主義学校で働いていた時、中学校に入学したばかの新入生に、教会の案内をしたときのことです。
学校の宿題とか、義務とか、そんなセンスよりもっと、これから生きて行く土台に関わる大切な事がそこに在るのだから、是非、教会に行ってみると良いと 薦めるのです。
その過程で、「聖日礼拝」の流れを案内することになりました。 プログラムの中の、「献金」に来た時、質問が飛びました。 「それって、寄付ですか?」、「お賽銭みたいなもの?」、「月謝のような?」
なるほど。 キリスト教という世界に 全く初めてふれるという子どもたちの、率直な感覚です。 教会に馴染んでいる者が ごく日常的に使っている言葉が、実は ちょっと特別な意味を示すということがある。 それも認識しないまま、いわゆる「教会用語」にしてしまってはいないか と考える一つの例であると思います。
教会内で使い慣らしている言葉を、「それは何?」と ふつうの言葉で問われることは、大切な事です。 それを手がかりとして、「そもそも それは何なのか」を捉え直し、自分の言葉で語ることを迫られるからです。
パウロもそうでした。例えば「献金について」という問題を取り上げながら、それを単にお金集めの問題として取り扱うのではなく、この具体的な問題を手掛かりにして、パウロはイエス様の福音の真理に深く触れているのです。
さて、今日の箇所は、「献金について」書かれていることは、先に9章の小見出しで見た通りですが、 実は、それは8章から始まり、9章の終わりまで、まる2章をにわたって、述べられています。
パウロがそうするのには、ある背景がありました。
コリントと言う町は、ギリシャの半島の付け根にあり、今なお現存していますから、観光に行かれた方もおありかもしれません。 パウロの時代から、それはよく栄えた大都市でした。彼は、伝道旅行の途中に、二度も、この町を訪ねています。 一見賑やかに盛んに見えるその町は、実は、問題を孕んでいるということに、パウロはすぐに気づきます。
そこに暮らす人々は、自分で考えて、自分を生きる という生き方から遠い。周りに流され、風潮に乗って、安易に生きている。 弱い者と強い者との格差を初め、その社会に起こっている問題が見過ごされている。
パウロは、ここに生きる人々には、イエス様の救いの言葉が、絶対に必要だ、と確信します。 それで、畏れずに、ただ、十字架の言葉を、救いの言葉を語ろう と、そう強く確信するに至りました。 猛然と語ります。
その結果、群れが生まれ、それは教会となって行きました。 見届けたパウロは、そこを去り、次の町に歩みを進めます。
ところが、間もなくして、コリントの教会に数々の問題が起こっているというニュースが彼の耳に伝わって来ます。
初代の指導者であったパウロを支持する人、それに対して、反対の立場をとる人。 パウロの語った福音の理解と、それとは異なった捉え方をする一派との対立。分裂の危機です。その他いくつもの課題、例えば、母教会エルサレムの教会の、貧しい人々を支援する献金をどうするか と言うような具体的な課題も、手つかず、そのままになっていました。
パウロはもう一度コリントを訪ねて、話しをしようとしました。 自分が行けば、何とかなるだろうと思ったのでしょう。 しかし、すでに、教会の空気は、相当辛辣なものとなっており、反対者達のある者は、パウロを攻撃し、侮辱さえしたようです。 彼が使徒(主イエスの僕)であるということすら 攻撃するような有様でした。
パウロは相当傷ついたはずです。自分が、心血注いで形作られた群れなのですから。 心に傷と苦しみを負いながら、コリントを去らなければなりませんでした。 後に、教会に向けて手紙を書きますが、それは、泣きながら書いた、「涙の書簡」と言われます。 残念ながら、その文書は、遺っておらず、今は読むことは出来ないのですが、どんな言葉が書かれていたのだろうと、いつかどこかで 発見されないものかと、思うほどです。
それはともかく、教会には、こういう現実というのがあるのです。 残念な事、惜しいことですが、教会は人間の、まさしく 罪人の集まりであります。こういう現実があるのですね。
ところがパウロは、そこで立ちつくしてはいません。さらに手紙を書き送って、牧者としての働きを全うします。そうして書かれたのが、この「コリントの謡的な信徒への第二の手紙」です。
長い前置きになりましたが、今日の箇所、9:6~9の背景にはこういう事情があるということを知って、今日の言葉を聴きたいと思うのです。
その上でここを読むと、パウロは、何とめげない人かと、改めて思わされます。ずいぶん理不尽な批判を受け、失礼極まりない、無礼な言葉も浴びました。 心血注いだ群れからですよ。 相当のダメージだったに違いありません。
それでも、この文章の中には、何の悲壮感も こわばりも、過度の緊張感も、相手を排斥、攻撃するような素振りもありません。
むしろ、「献金」が何であるか、その意味を、根本にさかのぼって、豊かに語ります。述べられるのは、深い肯定的な言葉だと感じさせられます。
(6)は、献金を 「種まき」にたとえています。
少し言葉を加えて言い直すと、「種を播く時に けちけちと播く者は、けちな収穫しかないだろう。 心を込めてたっぷり種を播く者には、たっぷりとらせて下さるだろう。」
そして(7)は、 献げものをするときは、不承不承。いやいやではなく、周りに流されてでもなく、自分で決めた所に従ってするのだ。喜んでするのだ と、勧めています。
パウロはそう勧めますけれど、さて、どうでしょう。 献金が、「感謝と献身のしるし」だというのであれば、正直、「ちょっと待ってください」と言いたい時というのがあるのではないか。 わたしたちを囲む現実は ドロドロとしていて、水が澄みわたるということは まずありません。だから、「心を込めて、たっぷり、いやいやではなく、喜んで」と言われても、それらすべてに「はい。そのとおりです。そう致しましょう」とは 応じられない現実。
そういえば、こう書いているパウロ自身、情況から言えば、まさに、それどころではない中に置かれているわけです。 機嫌よく、「喜んで、感謝を込めて」などという気持にはなれない、苦しみの中にいるわけです。 では、彼は、指導者たるが故に、言わなければならないから、言ったのか。口先だけで 言ったのか。 ちがいます。
そのカギは、(8)節にある。 「神は、あなたがたが いつも すべての点で、すべてのものに十分で、あらゆる善いわざに満ち溢れるように、あらゆる恵みをあなたに満ち溢れさせることが おできになります。」
この言葉を5回も連ねています。
この言葉の受け手が、いかにこういう言葉を受け入れ難い状況に在るか と言うことを、パウロは充分に知っているからです。 自身の情況も、まさにそうなのですから。
難しいい。 そうだろう。 けれども、神様は、そのすべてを、一つ一つを、もう知っていてくださる。 その上で、今、「感謝をささげるのだ。 そのしるしとしての献金にそれを込めて」と。
そう言われる根拠は?
(9)節の詩編からの引用の言葉が、示唆深いです。
「彼は惜しみなく与え、貧しい人に施した。
彼のいつくしみは 永遠に続く。」 詩編112:9からの引用です。
(「いつくしみ」は、「正義」、「良いわざ」とも訳せる言葉。)
「彼」とは誰をさすのでしょう?
パウロは、ここにイエス様ご自身を読み取っています。 イエス様は、その生涯、いつも憐みに満ち、あの時も、この時も、施した。助けを与え、愛を差し出した。 「十字架」は、そのしるしだ。 そうだ! そして、それは、永遠に続く。 復活に於いて、十字架の業は、永遠に続く。 今、この時も生きている。――そうじゃないか? と、パウロは言うのです。
この言葉に促されて、わたしたちの目も。 ドロドロした 自分の情況ばかり見ていた目も、十字架を見上げるように導かれます。
するとさらに、もう一つの事実に気づきます。 そのイエス様を この世にくださったのは、神様ご自身だということに。 神様は、かけがえのない 大切な独り子をこの世に下さいました。 それほどの犠牲を払われたのは、このドロドロの中に居るわたしを、私たち一人一人を、誰も漏らさず、救うためでした。 この事に思いが至ると、「そうだったのか」、「そうだったのだ」と、絶句します。
わたしたちの「感謝」」は、そして、そのしるしの「献げもの」は、ここに根拠があるのです。 機嫌よく、晴れ晴れ出来ない者、依然としてドロドロした中に居るような者。一人一人の すぐ傍らに 十字架は立っているのです。その者を救うために。 それは神様の恵みのしるしです。 ひとりひとりが、感謝する者にさせていただく恵み。
この恵みを、神様ご自身が、私たちに満たし、しかも、それが「感謝」となって、ひいてHは、「感謝のささげもの」となって 溢れるようにさせてくださるのです。
パウロ自身、神様のその業に気づき、今、これを書いているのだと思います。それに気づいた、パウロ自身の 感動と感謝が、ここに滲んでいます。
「神は、神が、満ち溢れさせて下さるのだ」と。
この恵みを浴びて 生きるわたしたちに、今週も、神様は共に居てくださいます。