日本キリスト教団 東戸塚教会

「クリスマスから十字架へ」
雲居 玲子 牧師

招 詞 17(イザヤ書60:1~2)
讃美歌 231(久しく待ちにし)
449(ちとせの岩よ)
聖書箇所 マタイ21:1~11

教会暦では、今日から待降節に入りました。降誕日(12/25)の前の主日迄、4回の日曜日を、降誕を待つ期間、「待降節」とし、今日はその第一番目の主日です。週報に、「待降節第Ⅰ主日礼拝」とあるとおりです。
「待降節」と言うのは、聖書の記述にはありません。十字架と復活日・イースターの日のことは福音書のどの書も、詳細に、しかも深く記していますのに。 聖霊降臨日 ペンテコステの出来事は、使徒言行録が記します。しかし、「待降節」のことは、どこにも出て来ません。 そうなのです。これは、後に、それも4世紀ごろになって、「教会が」生み出した「暦」であるのです。 この世で、一人一人が本当に活きた信仰者として生きるために、いわば教会が生み出した知恵であると言えるでしょう。
今、讃美歌(231番)で、「久しく待ちにし 救いの主来たり、とらわれの民を 解き放ちたまえ」と歌いました。 私たちは、これから、クリスマスまでの間、この思いで イエス様が来て下さるのを待ちつつ日々を重ね、本当に良いクリスマスを迎えようとしているわけです。

しかし、考えてみれば、主を待つというのは、何もクリスマスを前にした 待降節の時には限りません。「イエス様、私のところに来てください、この世界に来てください。それを待っております」という祈りは、私たちの信仰の根幹にふれる所ですから、時を問わず、いつでも、そう祈ります。
なのに、敢えて、殊にも、「主の来られるのを待つ」 という時を、なぜ 教会は持つのでしょうか。
それは、私たちが、この人生を生きている中で、「待つ」ことを巡って、深く考えさせられることがあるという事を、神様がよくご存知だからだと思います。
わたし達は、実際、「待つ」という事をするときに、望みを持ち、期待し、確信して待つこともあるけれど、一方、待っているものが現れなかったりすると、たちまち、どうしちゃったのだろう、と疑念が湧き、葛藤が生まれるということも、あるわけです。もう待てない! とキレたり、叫んだりもします。
「待つ」ということを巡って、人間はそのくらい、もろいものだということを神様はよくご存知で、だからこそ、「降誕を待つ時」(待降節)を用意なさったのだと思います。

この日のために、礼拝暦が示している聖書の箇所が、今日読み上げられた箇所です。 聴いてすぐお分かりになったでしょう、そう、「エルサレム入場」の記事です。十字架に揚げられる5日前の出来事です。 イエス様の誕生を待つ、待降節最初の週である今日、この箇所が差し出されたということは、意外ではありませんか。
降誕を待つ物語を時系列的に言うならば、マリアへの受胎の告知が有り、マリアが親戚のザカリヤの家を訪問して その妻エリサベトに挨拶したというエピソードがあり、そして、東の方では占星術の学者たちが出発し、ベツレヘムの原では羊飼いと天の軍勢との出会いがあり…と、そのように、クリスマス物語を追うように聖書の箇所が示されても、いいでしょうに。
それが違う。今日、神様は、このエルサレムの箇所を私たちに差し出されました。何がおっしゃりたいのでしょうか。

イエス様と弟子たちの一行は、エルサレムに向かっています。北からずっと南下してきて、ベタニヤを通り、もうすぐエルサレムというところまで来ています。ベトファゲという町。これは丘の東斜面に在った街ですから、そこから、もう丘の上にエルサレムの街が見えたのでしょう。
これ以降のイエス様の言動は、極めて真っすぐ、直裁的であります。
弟子の中から二人を呼び、「あの村に行け。入るとすぐ、ロバが繋いである、傍に子ろばもいる。二匹ともほどいて連れて来なさい。 誰かが何か言ったら、「主がお入り用なのです」と、それだけ言えばいい。きっと渡してくれる。」
随分きっぱりしたものです。傍若無人。ろばの持ち主にしてみれば、ずいぶん、失礼な話です。命じられた弟子達だって、いいのかなぁ、どうなるかなぁと、不安だったに違いありません。
加えて、これは、この福音書の記者のマタイが解説するわけですが、イエス様がそうなさったのは、偶発的な事ではない。昔から、預言者によって言われていたことを、イエス様が実現なさったということなのだ。と。
そのとおりです。イエス様は、いわば 旧約聖書を後ろ盾にして、このような言動をグイグイ進めておられるのです。
5節にあるのは、旧約聖書のイザヤ書62章からの意訳と、またゼカリヤ書9:9をほとんどそのまま引用した言葉
です。 (私が元の旧約聖書の言葉を読みますから、皆様は、お手元の聖書を目で追いながら お聴きください。)
「娘シオンに言え。」
「見よ、あなたの王が来る。
高ぶることなく、ろばに乗って来る。
雌ろばの子であるろばに乗って。」
兼ねて、神様が、預言者を通しておっしゃっていたように、そのとおりに、今、イエス様はしているのだ というニュアンスが感じられます。
その王は、普通の王に予想されるものとは 全く違う。たくましい軍馬の代わりに使われたのは、小さなみすぼらしいロバ出会った。付き従うものも、勇ましい軍隊ではなくて、長旅に疲れた12人の弟子たちであった訳です。
鞍も立派なものではなく、おそらく弟子たちのくたびれたような上着だったでしょう。
ただ、街の人々だけは、王の礼を持って、歓迎しようと、道を整えます。と言っても、赤いじゅうたんであるわけがなく、自分たちの服を、また、切って来た木の枝を 道に敷きます。そして、
(9)「ダビデの子に ホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところに ホサナ」
これもまた、彼らの独断ではありません。彼らの確信は、旧約聖書以来の歴史があったのです。(サムエル記上下に、ダビデの生涯の物語が記されていて、これは通して読むと、良い。)
ダビデには、自分の家に 神様の永遠の契約が与えられていることの確信が与えられていました。それは、イスラエル民族全体の確信でもあり、さらに、どんな時代の変化があろうとも、来たるべき全き王は「ダビデ」だと、そういう王の型として伝えられるようになりました。
今、ここでも、その呼び名が使われています。「ダビデの子にホサナ。」神のみ名によって来られる人に、万歳!
これもまた、旧約聖書の詩編の言葉を濃く映し出しています。
(詩編118:25,26を要約。開かなくても結構ですが、ちょっと読み上げてみると)
「どうか主よ、私たちに救いを。
どうか主よ、私たちに栄えを。
祝福あれ、主の御名によって来る人に。」
こうして歓迎した この日の歓迎は、彼らの本心であったでしょう。
国の情況も、政治も、良くない。そこで生活している人々の心も平安ではない。真の、良い「王」が来たとすれば、それは「「ホサナ、万歳」だ。と。
ところが、わたし達は 知っています。 この人々が、4日後には、「十字架につけろ!」と叫ぶのだということを。
イエス様は、このことも見抜いておられたに違いありませんが、されるがままに、道を進まれます。後に退きません。
見栄えのしないろばに乗って、敵から身を護る武具も身につけず、切りつける剣も持たず、全くの丸腰で。

この姿は、何を示すのでしょうか。
自分の目の前に居るこの人々が 神の赦しを得るために、この人々が本当に救われるために、在る方。 身も心も貧しくなり、「柔和」になって、柔和な王でなければ、なしえない救いをなそうとする方 の姿がここにあります。
人の罪のために打たれ、ののしられても ののしり返さず、ただ、神様の意志と計画とに従って、十字架への道を進む、救い主としての王 の姿が、ここにあります。
「私は柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:29,30)
この言葉も、エルサレム入城の時の「柔和な王」の姿、その苦難を見つめることなしには 深く理解することができないでしょう。

わたし達はこうして、イエス様によって 神様が下さる赦しを、救いを見ました。
すると、「待降節」」は、わたし達が待つ時であるけれど、実は、神様の方が待っておられるのかもしれません。 私たちが、クリスマスは、本当は、十字架への出発の時だと、わかることを。私達は、分かってほしい と望む神様を お待たせして、いるのかもしれません。 もう良い! とキレたりなさらず、忍耐ふかく 私たちを待っていてくださいます。 イエス様が十字架に揚げられた故に、私は救われた。クリスマスは、実は、イエス様がその十字架へ向けて出発なさったときなのだ。 そうだ! と、心から深く分かることを、待っていて下さるのです。 その意味で、「待降節」は、神様の方がそれを待っていて下さるのだと気づきます。
ちなみに、「待降節」は、英語を使って「アドベント」と称ばれます。 「到来」の意味を持つラテン語が原形です。
待降節も、クリスマスも、向こうから、神様の方から来てくださる。私たちを赦し、救うために、神様の方からの発動です。
待降節(アドベント)、クリスマスから、真っすぐ 十字架へ、救いの現場に進まれるイエス様が、今週も一緒にいてくださいます。