日本キリスト教団 東戸塚教会

  「キリストに結ばれた群れ」
佐藤 千郎牧師

二カ月前、藤田牧師から、7月の第3日曜日の礼拝は教会創立記念礼拝とします。先生には創立記念礼拝説教をお願いします、と言われました。全く突然のことでしたが、はい承知しましたと言ってしまいました。
考えてみると、東戸塚教会の創立にも、そして、今皆さまと共に礼拝をささげているこの教会堂の建築にも、全く関わって来なかったどころか、新聞雑誌などで紹介されていたこの教会堂の存在さえも知らなかった、その私が、創立記念礼拝説教依頼の理由も尋ねず、はい、と言ってしまうのですから無責任と言われても仕方ありません。
しかし、今回の説教準備を通して、私は一つのみ言葉に出会い、そのみ言葉に込められた意味内容の素晴らしさに気づかされました。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」という、コリントの信徒への手紙一1章5節にあるパウロの言葉です。

この言葉との出会いは、二年前に発行された東戸塚教会の「開拓伝道50周年 記念文集」です。教会と共に歩んでこられた皆様方の思いが綴られた記念誌を読み進んで行くうちに、度々わたしの頭の中に浮かび、記念誌を読み終えても消えることのなかったみ言葉です。パウロが開拓伝道と教会形成に苦闘する中で、日々感じていた主の教会に注がれる恵みから生まれた言葉です。本日は、このみ言葉に思いを傾けながら、二つの事柄絞ってお話をさせて頂きます。

一つは、この言葉の内を脈々と流れている変わることのない新鮮さです。パウロが、困難と苦渋を伴った開拓伝道と教会形成に、全力を注いでいた時、たびたび感じていたであろうこの言葉を、初めてコリントの信徒への手紙に記してから、現代の私たちが目にするまで、キリスト教会は約2000年の波乱に富んだ歴史を刻んできました。しかも、この長い年月の時の流れに加え、52年前に誕生した東戸塚教会は、キリスト教会が誕生した地エルサレムからも、手紙の宛先であるコリントからも地の果てほどに隔たっています。
それにもかかわらず、東戸塚教会の歴史、その苦難多き誕生と開拓伝道を担ってきた人たちの証言から思い起こされる言葉が、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」というパウロの言葉でした。

わたしはこの言葉と共に、マタイによる福音書の結びの言葉を思い出しました。この言葉に思いめぐらす中で思い出される風景だからです。
  <マタイによる福音書28章16~20節> 引用
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」、このように約束された主イエスが、それから2000年後、聖霊となって藤田牧師に働き、開拓伝道の願いを起こさせ、かつ実現に至らせ、東戸塚教会として50年の歴史を歩んできた、その歴史の中で育まれてきた言葉が、コリントの地で開拓伝道に取り組んだパウロと同じ言葉であったことに気づかされ、わたしは感慨深い思いに浸らざるを得ませんでした。
かつて、パウロを用いてコリント教会の設立へと導かれた神が、約2000年後、藤田牧師を用いて、この横浜の地に主の教会を設立された時、その御心と恵みにはひとかけらの不足もなく、むしろ、永遠に変わることのない神の愛の確かさの証が伴い、み言葉の解き明かしを生業としてきた私は、襟を正される思いでした。一度は、教会創立記念礼拝の説教を安易に引き受けたことを悔やんだのですが、今は、藤田牧師と御教会の皆様のお心遣いに、深く感謝しています。

 二つ目は、この言葉に込められた真実と信仰の力、神の愛への揺るぐことのない確信と信頼です。実は、コリントの信徒たちの現状に焦点を当て、さらに手紙を読み進んでいくと、感慨に浸るほど素晴らしい5節の言葉、さらにそれに続く言葉が、本当にそうなのかと思えてくるのです。ある注解書の言葉を借りると、これらの言葉は、パウロの辛辣な皮肉か、そうでなければ不誠実なまでに媚を売っている言葉ではないのかということです。
 手紙の中のいくつかの言葉を拾うだけで、一部のコリントの信徒たちは、ふしだらで恥さらしの集団、さらには、背徳的ともいえる人々であったことがわかります。
 「さて、兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストの名によってあなたがたに勧告します。皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい。‥‥キリストはいくつにも分けられてしまったのですか。パウロがあなた方のために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか。」(1:10,13) 穏やかではありませんね。さらに読み進んでいくと、
「兄弟たち、あなた方が召された時のことを思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄の良いものが多かったわけでもありません。ところが神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」 (1:26-28) 立ち帰るべき信仰の原点を示しつつ、教会の一致を求めるパウロの姿が伝わってきます。5章にいたっては、目をそむけたくなるような記述もあります。
「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から排除すべきではなかったのですか。」(5:1-2)
 自分たちの教会の生みの親であるパウロに、こんなことを書かせる人たちがコリントの信徒たちの中にいて、しかも、こういう人たちが、我こそが真のキリスト者と言わんばかりの態度で、パウロの信仰を非難していたのです。パウロは、このような教会の現状を承知のうえで、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」と書いているのです。だから、ある人たちが指摘しているように、この言葉が、コリントの信徒たちへのパウロの辛辣な皮肉であるとか、不誠実なまでにコリントの信徒たちに媚を売っている言葉であると、受け取られても当然でしょう。このような教会のどこに、豊かさがあるでしょうか?

 それが、あるのです。そしてこれこそ見落としてならない主の教会の中味です。
例えば、コリントの信徒への手紙一には愛の讃歌と呼ばれる素晴らしいみ言葉があることを、皆様もご存知でしょう。コリントの信徒への手紙一13章です。一部分だけお読みします。是非後で13章全部を読んでください。
   <コリントの信徒への手紙一13章3~8、愛は決して滅びない!>
 この素晴らしい愛の讃歌は、(私の伝道者、牧会者としての60年の経験を重ねて申しますが)神が選び遣わされた伝道者・牧会者に、その日が来たら人々に語りなさいと、預けられていたみ言葉です。この預けられていた讃歌を、牧者であるパウロから引き出したのがほかならぬ、パウロにあのような手紙を書かせた、あのコリントの教会の信徒たちでした。貧しさの極みの中で、その真っ暗な闇に向かって語られた希望の言葉、それが愛の讃歌だったのです。そして、驚くべきことに、この讃歌を書き送ったパウロをだけでなく、この言葉を受け入れたコリントの信徒たちが、コリントの教会の混沌とした深い闇の中に、コリント教会に対する愛の神の信頼、希望、忍耐、そして教会の主イエス・キリストの信頼、希望、忍耐を読み取ったのです。教会から神の信頼、希望、忍耐が失われることはないのです。
コリントの教会の信徒たち一人一人に注がれた神の愛は、この貧しさの極み、希望が見いだされない真っ暗な闇の中でも、決して滅びないのです。この神の真実とそこに込められた信仰の力に気づかされたパウロは、手紙の冒頭で、何よりもまず、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」と書かざるを得なかったのでしょう。

 このころ、コリントの信徒への手紙と相前後して書かれたローマの信徒への手紙の中で、パウロはキリスト教信仰の内容について8章にわたって書いているのですが、その結びでこう書いています。
 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力からあるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマの信徒への手紙8章38~39節)

 この確信に基づいて、パウロは、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」と書いているのです。だから、キリストに結ばれているとは、キリストによる神の愛に結ばれていることに他なりません。わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛、即ち、主イエスの十字架と復活によって示された神の愛に結ばれているわたしたちは、決して滅びないのです。
 もっと正確に言うと、神の愛がわたしたちを信頼し、わたしたちに希望を置き、最後まで耐え忍んで滅ぼさないのです。何故か、主イエスの十字架と復活によって示された神の愛によって愛されている私たちの命の一つ一つが、助けを求める命でありながらもなお、助ける命として生かされ、隣人を慰め力づける豊かさを伴っているからです。どのような命も、この地上から、無意味に失われてはいけないのです。
 悲しいことですが、世界は混迷を深め、先の見えない闇がこの地に住む人々を覆い、日々、多くの命が失われ、かつ残忍なやり方で殺されています。教会の置かれた環境もまた厳しさを増すに違いありません。しかし、「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています。」 だからこそ、神の言葉を預けられた主の教会は、その存在の意義を、いよいよ深くしているのです。パウロは、今日の聖句の段落の終わりで書いています。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」
例え、的外れな時があり、懺悔を伴う日々が思い出されても、今朝は、今日の聖句のゆえに、神の招きに応えて歩んできた日々、キリストに結ばれた恵みに感謝しつつ、教会創立52周年の喜びを分かち合いたいと思います。 改めて、教会創立52周年をお迎えになった東戸塚教会に、神さまの祝福をお祈りいたします。