「神のもとにある喜び」 牧師 佐藤 千郎
すべての人が、ただ一人の例外もなく、人生の最期に向き合わなければならない現実が死です。その中には即死と言って、向きあう時と最期の時が重なることもありますが、生きている時と死ぬ時を、同時に重ねることは出来ません。しかし、自分の死だけでなく、家族や友人の死など、人生のただ中で必ず死と向きあう時が来ます。このとき人は、これまでに経験したことのない現実と向き合うことになります。その向きあい方は、状況や環境、死ぬ時までの残された時間の違い、などによって様々です。
先ほど交読文で交読した旧約聖書の詩編23編に思いをめぐらしたある聖書学者は、死と向き合う人生を「言うまでもなく、すべての人生に共通する一点は、それが死に向かう旅であることである。自覚していようといまいと、人は常に『死の陰の谷』を歩いている」と表現し、更に「『死の陰の谷』を恐れつつ行くか、<正しい道>として安らかに歩むかは、だれを導き手にするかによる。」と言葉を続け、誰を人生の導き手とするかによって、死に対する向きあい方が違うと指摘しています。
ところで、新共同訳聖書で「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」と訳されている言葉は、文語訳で「主はわが牧者なり、われ乏しきことあらじ」と訳され、その後の口語訳では「主は、わたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない」と訳されていますので、「主は、わたしの羊飼い」という表現が、この詩篇の作者が描く信仰内容だと思われます。以下では、「主は、わたしの羊飼い」と言う表現を使わせていただきます。
「主は、わたしの羊飼い」、主なる神こそ、わたしの羊飼い、と自らの信仰を言い表す23編の作者は、「主は、わたしの魂を生き返らせてくださる」と歌い、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」と言い切り、「命のある限り、恵みと慈しみはいつも私を追う。主の家に私は帰り、生涯、そこにとどまるであろう」と、将来の暮らしに於いても失われることのない希望を、確信をもって歌い上げています。
「主は、わたしの羊飼い」。この言葉にわたしたちはどのような景色を思い描く事が出来るでしょう。イスラエルなど、中東を旅行されたかたであれば、広い草原を、何十頭という羊の群が、一人か二人の羊飼いと共に移動していく景色、それも一組でなく、その草原に何組も点在する風景を、目にされたに違いありません。遊牧の暮らしとは無縁な私にとって、この景色は衝撃的でした。この景色が「主は、わたしの羊飼い」かと、感動しました。そして、この景色こそが羊の気持ちを生み育んできたことに、気づかされたことです。
「主は、わたしの羊飼い」。羊飼いに従っていく羊の気持ちを、これほど正確に、かつ簡略にそして見事に表現した言葉を、私は他に知りません。あたかも、自分の所有物であるかのような表現ですが、誤解を恐れないで言い切ってしまえば、まさにその通り、「主は、否主が、わたしの羊飼い」。羊飼いにたとえられる主なる神は、他ならぬこの私のもの、わたしの所有物です、と言っているのです。草原で幾組も点在する羊の群れの一つを世話する羊飼いを経験した者でなければ、表現できない言葉だろうと思のです。自分の羊たちが「主は、わたしの羊飼い」と言って従ってくる羊だからこそ、何十頭もの羊を、たった一人の羊飼いで導いて行くことが出来るのです。
主イエスはご自分を羊飼いにたとえて「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊も私を知っている。」と話されています。羊もわたしを知っている、それは、羊飼いと羊との間に生まれる揺らぐことのない信頼に他なりません。「主は、わたしの羊飼い」という表現は、この信頼の中で生まれた言葉です。
本日はずいぶんと回り道をしています。それは今日の聖句である詩編16編の信仰内容が、23編と通じ合い、重なり合っているからです。だから、旧約聖書に疎いわたしが、日ごろなじみの薄い16編を味わうには、これまでに繰り返し読み、幾度となく説教のテキストとし、さらに、ほぼ毎回の葬儀で朗読し、加えて、多くの人が親しみ、愛誦している詩編23編の助けを借りることが有効なのです。経験から学んだ聖書の読み方です。
詩編は150編からなる様々な内容の宗教的詩歌を集めたものです。作品の年代の幅は広く、作者も多く、その思想も実に豊かで、ひとくくりにはできません。ただ、古くから、研究者によって、その詩編の作られた年代や内容の共通するものを選び出し、賛美の歌とか、嘆きの歌とか、感謝の歌など、いくつかに分類されています。詩編16編は、23編と共に、信頼の歌に分類されています。古典的な注解書である「ケンブリッジ旧約聖書注解」では、16編の注解の冒頭に「詩編4,11,23編と同様、これは確信の詩編である。」と書かれてあります。もちろん、学者によって分類に違いがあります。16編を嘆きの歌に分類している学者もいます。このことを承知のうえで、私はケンブリッジの分類に従って、16編は23編と同じ確信に満ちた信頼の歌として読ませていただきます。
先ほど藤田牧師によって読まれましたように、16編の作者は、7節以下の後半で、神への信頼とこの信仰から生まれる喜びと希望を、賛美を伴いながら、歌い上げています。特に10節11節は、新約聖書、使徒言行録にあるペトロの説教で、主イエス・キリストの復活を意味する旧約聖書の言葉、イスラエル民族の中で、受け継がれ、継承されてきた言葉として引用されてもいます。
この指摘は、欧米の映画やテレビドラマの中の一場面、亡くなった人を墓地に埋葬する場面を、私に思い出させました。映画やテレビドラマに疎い私ですが、ただ、ドラマの中の埋葬場面で神父や牧師が聖書を読むとき、そのすべてが詩編の23編であったことが記憶に残っています。それは、詩編23編には、死に勝利した信仰が、即ち、主イエスの復活のよって私たちに約束された、人の死によってさえも失われることのない、永遠の命の喜びが、そして、遺された遺族への慰めが歌われているからです。
16編もまた、主イエスの復活に関するメッセージの中で引用されていることから、「詩編4,11,23編と同様、これは確信の詩編である。」との「ケンブリッジ旧約聖書注解」の説明に納得し、16編の9節以下の
「わたしのこころは喜び、魂は踊ります。/からだは安心して憩います。/あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず/命の道を教えてくださいます。」というみ言葉は、23編の「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない/あなたがわたしと共にいてくださる」とのみ言葉に重なります。この二つの詩編を読むと、死に支配されることなく、むしろ死に打ち勝つ神の力、復活力に対する揺らぐことのない信頼が、二つの詩編に共通した信仰から生まれた信頼であることが伝わってきます。
更に、16編の結びの言葉「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の手から永遠の喜びをいただきます。」に、23編の結びの言葉をつなげても、そこに違和感を持つことはありません。続けて読んでみましょう。「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い/右の手から永遠の喜びをいただきます。」「命のある限り/恵みと慈しみはいつも私を追う。/主の家に私は帰り/生涯、そことどまるであろう。」
ドイツの古典的な注解書の一つATDは、16編の結びで、「神の生ける力に対するこのような喜ばしい肯定のうちに、聖書の信仰の底力がひそんでいる。この信仰は、死をも含めた生のすべての現実に対して、積極的な信仰をもってかかわることを可能にする。」と書いています。「死をも含めた生のすべての現実に対して、積極的な信仰をもってかかわることを可能にする。」 詩編から読み取れる信仰の神髄、信仰にとって最も大切な中心かつ本質が、ここにあると言えるでしょう。この信仰から生まれる喜び、神のもとにある喜びこそ、死の陰の谷を行くときも、あらゆる死と向き合う現実の中でも、なお失われることのない喜びに他なりません。
何故か、これこそが、神を信じ神に従う人に、神が約束された分け前、5節にある「主はわたしに与えられた分」であり、6節にある「輝かしい嗣業」に他ならないからです。最後に、この二つのことの要点だけに触れておきたいと思います。
旧約の歴史をたどっていくと、モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエル民族、12部族が、やがて約束の地カナンに着いた時のために、主なる神が土地の分配を指示される場面があります。5節6節の言葉は、この分配に関連する言葉です。「主はわたしに与えられた分」も、「輝かしい嗣業」も、ヨシュア記13章14節につながる言葉です。そこには「ただ、レビ族には嗣業の土地は与えられなかった。主の約束されたとおり、イスラエルの神、主に燃やしてささげる捧げものが彼の嗣業であった。」とあります。12部族の中で、土地を与えられなかったただ一つ部族は、主なる神を、主なる神を礼拝すること、そこで賜る祝福や慰めを、その部族が受け継ぐ財産、嗣業として与えられたのです。
だから、「主はわたしに与えられた分」主なる神は、わたしに与えられた分、わたし分け前と歌う時、16編の作者は「主はわたしの羊飼い」と歌う23編の作者と、神への信仰を同じくし、この地上で手に入れたものは何もなくても、その時々に神から頂いた慰めや希望を共にしつつ、これを「輝かしい嗣業」として受け入れ、神のもとにある喜びを喜び、神を賛美しているのです。
「イエスは主である」と告白した私たちは、この信仰を、この讃美を受け継いでいます。この信仰を生きたパウロは、コリントの教会の信徒に宛てた手紙の中で、こう書いています。
「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力がかみのものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死に渡されています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために。……だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」
「外なる人」は衰えていきます。人は間違いなく死の陰の谷を進みます。だからこそ人はただ一人の例外もなく、人生最期の死と向き合わざるを得ません。その日が来たら、出来ることが出来なくなり、身に付けたものはどんどんと衰え、失われていきます。死を恐れる恐れが目を覚まし、最期の日に向かう日々に恐れが生じてきます。
このような中で、この現実に目をそらすことなく、恐れを覚え不安に怯える自分を認めつつもなお、わたしたちは「主はわが羊飼い」と歌い、今日の聖句の冒頭「神よ、守ってください。あなたを避けどころとするわたしを。主に申します。『あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしのさいわいはありません。』」と祈り、私の神に呼び掛けます。これが信仰生活の中味。神のもとにある喜びが約束された分け前、わたしに与えられた分の中味です。