日本キリスト教団 東戸塚教会

「み言葉を聞いて悟る人」 牧師 藤田 穣
(マタイによる福音13章18~23節)

聖書 マタイによる福音13章18~23節
13:18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。 13:19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。 13:20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、 13:21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。 13:22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。 13:23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

皆さん、お花の種まきとかしたことがありますか。今朝は、イエスさまの教え 種まきの譬えを通して学びます。
イエスさまの時代、11月中旬から1月にかけて、お百姓さんは、大麦や小麦の種を蒔きました。彼らは、袋に種を入れて、袋の一部に穴をあけ、背負ったり、ロバの背に背をわせて、畑を歩き、種を穴から落し、畑にまき散らしました。その後で畑を耕し、種に土をかぶせました。これが、イエスさまの時代の農業でした。無駄になる種も多く、干天や害虫にやられることも多く、今に比べ収穫は当然、低かったのでした。
ある種は、道端に落ちて、コロコロ転がりました。すると、鳥が来てパクリと食べてしまいました。別の種は、岩地に落ちました。硬い岩の上に土が薄くかぶっている場所です。種はすぐに芽をだしました。でも、硬い岩に阻まれて、根を伸ばせず、太陽の暑い日差しに照らされるとたちまち弱って枯れてしまいました。また、別の種は、とげとげのある茨の間に落ちました。種は芽をだし地面に根を張りました。ところが、周りの茨に邪魔されて大きく育つことができませんでした。他の種は良い土のところに落ちました。耕された柔らかい土の中で目を出し、ぐんぐん根を張りました。芽はすくすくと育ち、葉が茂り、花が咲き、やがて実がなりました。小さな種から百倍、60倍、30倍もの実がなったのです。
この種まきの話、種は神さまの言葉のことです。畑、地面は、み言葉を聞く人の心のことですと仰いました。
硬い道端のような頑固な心の人は、み言葉を聞いても「本当かな」と信じようとしないので、折角、聞いた言葉が残りません。岩地のような心の人は、み言葉を聞くと、「素晴らしい」と喜んで信じますが、一寸、難しいことがあると、くじけて神さまに従うことをやめてしまいます。茨が生えているような場所の心を持つ人は、み言葉を聞いても、お金のことや自分の楽しみや心配などに気が散って、神さまに従い続けることが出来ない人です。
そして、良い地のような心の人とは、神さまの言葉を素直にしっかり聞いて、良く考え、従う人です。このような人は、種が沢山の実をならせつように、心が愛や感謝で一杯で、神さまに喜ばれる人に成長できるのです。

祈ります。
神さま、みことばをありがとうございます。良く聞いて、神さまに従えるようにお守りください。世界中の人が平和で健康に暮らすことができますように。イエスさまの御名によって祈ります。     アーメン

2~3のことに言及します。
今日の聖書箇所は、種まきのたとえ話の解説部分です。
話のもとの意味は、農夫のまく種の多くが結実せず、無駄に終わることです。種まきの種は神さまの言葉と申しました。神さまは、多くのみ言葉をまきますが、その多くが豊かな収穫を迎えることはなく失敗に終わることが多いのです。神の国、神の支配は、わたしたちの目には、見込みがなさそうに思えますが、最後には必ず多くの実を結び、神の国は出現するということをイエスさまは語りました。
この福音書のマタイは、教会内の多様な信徒、すべてのものが実を結ぶわけではない。実際に実を結ぶのは極わずかであると申しているように思います。しかし、信徒たちにたゆまぬ伝道を促すのである。
農夫なる神は、少し無駄になる種はあるが、収穫が必ずあると確信しているのです。

ここでは、イエスの教えを心の中に蒔かれた4人の人の受け止め方が描かれています。
踏み固められた道端に落ちた種
道端は人や馬車で踏み固められています。根を下ろす余地がない。 ある種類の人の心には、福音のみ言葉が入りこむ余地がありません。頑な心は容易に破ることはできません。頑なな心の原因、第1に誇りである。第2に新しい真理に対する怖れである。ときに、不道徳な性格と生活態度が人の心を頑なに閉ざす。
この人は、救いの福音を受け付けないのです。新しい生き方の可能性が奪われている人です。

石地に落ちた種
石地は太陽熱を保存するので、すぐ発芽するが、同時に根もかれてしまう。
新しいことに夢中になる人がいる。すぐに何かを始めるがやめてしまう。熱しやすく冷めやすい人です。新しがり屋は、新しいことにすぐ夢中になるが、困難に会うと、熱も冷めてしまう。
こういう人は、み言葉を聞くと感激して、喜んで受け入れる。けれども根を深く下ろせないので、すぐ躓いてしまうのす。キリストの救いを受入れて、クリスチャンになっても、具体的な信仰生活のなかで、忍耐強く信仰を形成してゆけなければ、つまずいてしまう。暫く、信仰が続くだけで、つまずくなら、その人生は負けである。

茨の中に落ちた種
石地ではありませんので、芽を出し、根もはります。
しかし、茨に伸びて塞がれてしまう。茨とは外からくる誘惑です。様々な誘惑、世の思い煩いや富の誘惑とあります。そちらにも目移りして信仰生活もほどほどになります。
多くのことに興味を持ちすぎて、一番、大事なことを顧みない。現代人の生活は忙しく、多くのことに心を奪われてみ言葉の学びを忘れる。キリストを第1とする生活が崩れてしまう。そうであれば、み言葉は結実しないのです。

良い地にまかれたものとは、
詩編1篇2~3節
「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす。
良い土地にたとえられる人は、み言葉を受け入れるのに、①心が開いている。いつも学ぼうとする姿勢がある。②喜んで聞く。もう知っているとか言わないで、いつも聞こうとする。③理解する。自分で考えて、それが、自分にどんな意味があるかを知り、受け入れる。④ 聞いたことを実行するのです。
それは、み言葉を聞いて悟る人のことです。
悟るというのは、単に、分かるということでなく、それが本当に自自分のものとなること、食べたものが血となり、肉となるるように、心の成長の糧となることです。
それには、180度の方向転換が必要です。
エレミヤ書4章、「 まことに、主はユダの人、エルサレムの人に、向かって、こう言われる。「あなたたちの耕作地を開拓せよ。茨の中に種を蒔くな。 ユダの人、エルサレムに住む人々よ、割礼を受けて主のものとなり、あなたたちの心の包皮を取り去れ。さもなければ、あなたたちの悪行のゆえに、わたしの怒りは火のように発して燃え広がり、消す者はないであろう。」(3~4節)
良い地の人に求められているのは。耕作地を開拓することです。あなたの心の包皮を取り去ることです。それは、悔改めて福音を信ずることであり、み言葉に従う、イエス・キリストに従う人であります。人生の中で、鍛錬されてゆく人です。 人間の心も、艱難、苦痛、逆境、試練の鋤鍬を持って、深く心を掘り起こされ、心を砕かれ、自分が罪人であり、救いを必要とし、神さまなしに生きられないことを知らされる必要があります。そうした心の素地が用意されてはじめてよき地になるのです。
農夫なる神は、私たちの信仰を耕し直し、必ず結実させ、その実を刈り取ってくださるのです。
神の国は近づいた悔改めて福音を信ぜよ(マタイ福音書4章17節)
神の国の到来、神の支配が始まっています。今も生きておられる復活の主イエスのみ言葉に聞くことです。
ヨハネ福音書12章に、一粒の麦落ちて死なずばという言葉があります。 12:24はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(24節)とありまっす。
それは、主イエスの十字架を語る言葉です。主イエスは、私たちの罪からの救いのため、身代わりとして十字架に架かってくださいました。神は、神の子、罪なき神の小羊の犠牲により、
私たちアダムの末裔(人間)の罪を贖ってくださいました。
ここに、神の愛、憐みがあります。神は御子イエスを十字架の死から復活させ、神の右にあげ、今は、聖霊を通して働いてくださいます。この主イエスの十字架の愛、神の愛にどうこたえるのでしょうか?
信仰とは、救い主イエスを愛することです。
あなた方は、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて言葉につくせない、喜びに満ちている。」(ペトロⅠ書1章8節) 昨日も今日も生きて働き給う復活の主イエス
を信じて、感謝の生活を送りたいと願います。