「思い切って 大胆に」 牧師 雲居玲子
礼拝招詞 詩編51:12~14 (招詞 No.50)
讃美歌 前 205(今日は光が 造られた日よ)
後 405(すべての人に のべ伝えよ)
聖書箇所 使徒言行録 4:13~31
わたし達は2週間前にペンテコステの礼拝を守りました。 で、今日は、礼拝順序の上に記されている通り、教会暦による「聖霊降臨節 第3主日」です。
今日のために、使徒言行録4章のみ言葉が差し出されました。 ここから、この週を歩くための信仰の力を与えられたいと思います。
ペンテコステに誕生した最初の教会の伝道は、使徒たちの力強い働きによってなされて行きました。
<使徒言行録は、そうして教会が広くローマまで広がって行った事実が 生き生きと記されていますから、(ルカが、福音書の続きとして記した)、この機会に、これを通して読んでご覧になると良いと思います。>
3章の初めには、弟子のペトロとヨハネが、神殿を囲む壁に在る門「美しの門」という門の傍で、足の不自由だった人を癒したことが語られています。
神殿へ通じる門ですから、大勢の人々が行き交っていたのでしょう。 そんなことが起これば、その業にすっかり驚いて、人々が集まってきて当然です。 なんだ、何が起こったのか、この人たちはスゴイ というような声が飛び交ったのでしょう。 しかし二人は、これは自分たちの業ではない。 イエス様を通して、神様が成してくださったことだと、語ります。 これが彼らの伝道の初めでした。
それは、本気で、熱心でした。 これは多くの人々の心に響きましたが、しかし、ここで注目されているのは、その業よりも、むしろ、そこで直ちに 起こった妨害についてです。
ペトロたちは、咎められました。 当時の神殿の責任者たちによって捕らえられ、おかしな教えを伝えて、民衆を扇動するものとして取り調べられたのです。(4:1~)
しかし二人は、ユダヤ人の最高権威者たちの前でも全くひるむことなく、力強く証しをしました。(4:13~)
教会の伝道は、最初からこのような妨害、困難を伴っていたのです。 教会が、私たちがイエス・キリストの福音をのべ伝え、イエス様こそ救い主であると証していくときに、そこには必ず、それを否定し、敵対する力も生まれ、妨害が起こって来るのです。
「信教と思想の自由」が憲法で保障されている 現在の私たちは、こういう切迫感に疎いと思いますが、しかし、私たちの先輩は、実際に、厳しく、その現実を通ってきました。
今存命ならば150歳になる 親しかった、おばあちゃまは、岡山の高梁(たかはし)キリスト教会の出身でしたが、この教会には、礼拝中に、実際 外から石が投げ込まれたことがあります。 「怖かった。その石が、記念として今も教会に取ってあるんですよ」と、まだ牧師になりたての、若い私によく話してくださいました。
東戸塚教会も、今はこうして立派な会堂が与えられ、多くの方々が集っていますが、今から54年前、この教会が正式に設立を見るまでには、また、その後も、外からの厳しい「圧」を越えなければならない時が あったっことでしょう。
ペンテコステに誕生した 初代の教会が、伝道の妨害、困難の中で、どのように歩んだかを、今日の箇所は語っています。
(23)「さて、二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」とあります。
ペトロとヨハネは、自分たちが逮捕され、そこで体験したこと、どう答えたかを逐一、仲間たち、つまり、教会の人々に報告した、というのです。 二人の伝道のわざが、教会の人々に共有されていた。 そしてさらに言えば、これは、ペトロとヨハネが逮捕されて一晩留置されていた間、教会の仲間たちが集まって、彼らのために祈っていた、ということも示していると思います。 教会全体が、使徒たちの伝道の働きを覚え、祈り、支えることによって、その伝道の業を共有しているのです。
伝道とはそのようにしてなされ、進展してゆくもの。 その意味で、教会の人々みんなが担い、共有するべきものなのです。 実際に何かの業を行ったり、み言葉を語ることは使徒たち(牧師)がしているとしても、教会に連なるすべての人々が、そのことを覚え、祈り、支えることを通してそれを共有し、それに参加しているのです。
「わたしは教会のために何もできない。伝道のために 何の働きもできない」と想うときであっても、祈りによって業によって、伝道の業を共有することが出来ます。 身体を動かして何かをすることが出来なくても、祈りによって、伝道の業に参加することが出来るのだし、そういう祈りが、実際に働きを負っている人々を力づけ、支えるのです。
ペトロとヨハネは、そうして祈っていてくれた教会の仲間のところへ帰ってきました。
さて、その二人の報告を聞いた教会の人々はどうしたか。 それが、
(24)「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声を上げて言った。」のでした。
「神に向かって声を上げる」――それは祈るということです。
今までも二人のために祈っていたのだけれど、帰って来た二人の報告を聞いて、彼らは、改めて、祈りました。
祈った のですが、それを「心を一つにし、神に向かって声を上げて」と表しているように、ただ、漠然と、神様に感謝したというのではありません。神様に向かって、語りかける はっきりとした言葉を得たのです。心が一つになって、神様に語りかける、祈る言葉を得ました。
その言葉が、(24)節の後半から(30)節までに書かれています。
その一言一言を取り上げて解き明かすことは、今は致しませんが、
要は、世界は神様のみ心に逆らうようなことに満ちていますが、(OTの時代から、ずっとそうだったと、25節、26節は、詩編2編を引用して、それを述べています)。 そして、27,28節では、それにも関わらず、神様がなさったことがあると、明言しています。
つまり、イエス・キリストを通して、神様はその御心をすべて行われた というのです。
神様は、イエス様に、私たちのすべての欠けを、すべての罪を背負わせて、十字架にあげられた。 イエス様は、神様のみ心を、すべて身に受けて 死なれた。 事実墓に葬られた。 そして、その後、復活を成し遂げられた。 死に打ち勝ったのだ。 この初めから終わりまでのすべてが、神様のみ業、神様のご計画の実現だったのだと、使徒言行録は、力を込めて言っているのです。
だから、神様に逆らい、教会を迫害し、伝道を妨害する いかなる力も、さらに言えば、私たちをいつも脅かしている死の力も、もはや、このイエス・キリストのご支配のもとに在るのであって、それらも、神様の救いのご計画の実現を妨げることはできないと言っているのです。 そのとおりです。
祈りながら待ち、祈りのうちに使徒たちの証言を聞いた教会の人々は、この事がよくわかりました。
十字架で死んだイエス様が、現に今も、働いていてくださる、自分たちと一緒に歩いていてくださる というのは、事実だ。 それは、教会で語られ、仲間同士でも確認し合い、事実になっていることを感じる。 そうさせてくださる事自体神様がしていてくださる、「聖霊の働き」によるのだけれども、彼らは、実感として、それが分かったのだと思います。
それで、教会はさらに神様に 祈り求めています。
(29)節。 その祈りは先ず、「主よ、今こそ彼らの脅かしに目を留め、(てください)」と、始まります。
具体的に、自分たちが 今 受けている妨害、脅し、その苦しみを、主なる神様にこそ 観ていただくことを願っているのです。 それは、主なる神様こそが全てのものの支配者であり、自分たちを今苦しめている者をも 支配しておられる方だからです。 だから、この情況をどうにかしてくださるのは、神様しかいないのです。 人間の熱心さとか知恵とか善意とか、常識とか、そういうものによって打ち勝つのではありません。私たちにそんな力はないし、そういうことが求められているのでも無いのです。
さらに、「思い切って大胆にみ言葉を語ることができるようにしてください。」と祈っています。 神様が為してくださったご計画。 ――この私が神様の前に出られるように計らってくださった。この私を救ってくださった。 神様がそうしてくださったという事実を見ると、その神様に応えて、その神様のお命じになる働きをしたいと 思わされます。 その命令の内容は、「思い切って大胆にみ言葉を語る」ことでした。 教会は、伝道するものです。 わたし達が、教会に導かれたということは、神様がわたし達を伝道の業のために用いようとしておられるということです。 わたし達は、自分にはそんな力はないとか、そんな大変な事は滅相もないなどと想いますが、神様は、「私はあなたをこの事のために用いる。あなたのはたらきが必要なのだ、とおっしゃるのです。 襟を正して、聴きたいと、改めて思います。
さらに、「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」と 祈られています。 これも、人間の思いから出てくる祈りではありません。 本当に癒せるのは神様だけです。 不思議な業をすることが出来るのは神様だけです。 そうです。わたし達に出来ることは、は、神様はきっとそれを為してくださると、信じて、祈ることだけです。
この祈りに応えて、「聖霊」が教会の人々に 再び降りました。
(31)「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した。」 ペンテコステの出来事がもう一度繰り返されたと言ってもよいでしょう。
しかし、2章と同じことが繰り返されているのではありません。 ここでは、教会は初めての妨害に会い、この世の力を持っているもの者たちからの脅しを受けています。 聖霊は、神様の力は、そいうい教会の、信仰者たちの事情、情況に応えて働いてくださるのです。
ここで彼らに必要だったことは、妨害や脅しを受けて困っている、苦しんでいる事態を神様に見ていただき、それらの事を、神様のみ手に委ねて、思い切って大胆に、み言葉を語ることでした。 神様はその祈りにしっかりと応え、それを実現して下さったのです。
「思い切って大胆に」の反対は何か。 よく言えば「思慮深く、慎重に」。 しかし、それは同時に「臆病で、小心者のように」とも言えます。 事 神様のことになると、事 教会のことになると、人に対して そうなることがしばしばなのが私たちの実情です。 けれども、そういう心の中も全部神様に見ていただき、そういう自分自身も丸ごと神様にお委ねして、神様がわたし達になしてくださったこと、教会に為してくださったことを、恐れず、思い切って語るものにされたいと思います。神様は、聖霊(助け主)をもって、きっと助けて下さるでしょう。