日本キリスト教団 東戸塚教会

「これこそ、復活のリアル」 牧師 佐藤 千郎

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」 これぞ、復活のリアル、これこそが、復活のリアルです。
苦難と十字架の主イエスにつながり、復活の主イエスに出会い、復活の命の与かり、「からだの甦り、永遠の命を信ず」と告白しつつ、今ここで礼拝をささげている私たちのリアル、即ち、信仰をもって生きつつも、しばしば苦難を抱え込み苦闘する私たちひとり一人のあるがままの姿です。
この手紙の差出人であるパウロは、この言葉の少し前で、このように書いています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない。」 これもまた私たちキリスト者のあるがままの姿です。信仰を得たからと言って、全て順風満帆とはいきません。四方から苦しめられます。途方に暮れます。虐げられます。打倒されます。でも、行き詰りません、失望しません、見捨てられません、滅ぼされません。なぜか、このもろい土の器に、偉大な力を秘めているからです。

さて、ユダヤ人として生まれ、ユダヤ教信者として育ち、キリスト教会の熱心な迫害者となったパウロから、主イエスの僕へと神によって召され、回心して使徒となったパウロに神が託された使命は、土の器に納められた偉大な力が神のものであり、わたしたちはその力に与っていること、即ち、この良い知らせ、福音の内容を明らかにし、かつ宣べ伝えることでした。
パウロは使命感に燃え、当時の世界であった地中海世界に出ていき、3回にわたる伝道旅行を通して各地に教会を設立しました。コリントの教会も、その中の一つです。
ところが、パウロがいなくなると、コリントの教会に対立が生じ、更に、この混乱に乗じて入り込んできた偽教師たちの言動によって、コリント教会の信徒たちの間に分断が生まれ、偽教師の影響を受けた信者たちのグループと敵対する程に、パウロと教会との関係は悪化します。
事の重大さを心配したパウロは、コリントの教会に宛てて幾度も手紙を書きます。現在私たちが手にしているコリントの信徒への手紙は、二つですが、聖書学者によると、元々の手紙の数は四つとも五つともいわれ、それらの手紙が現在の手紙に編集されたとのことです。いずれにしろ、わたしたちは現在手にしている二つの手紙から、コリント教会とパウロとの間に何があったかを、かなり詳細に知ることができます。

偽教師の問題をめぐる、論争のひとつは、かつてキリスト教会迫害の先頭に立っていたパウロの使徒職に関するものでした。偽教師はいろいろな例を挙げ、パウロが、主イエスの教えを正しく受け継ぎかつ教えることの出来る、本当の指導者であるかどうか、更に、当時、本山的存在であったエルサレム教会の出身者でないパウロが、神から遣わされた使徒と言えるのかどうかなど、執拗に攻撃したようです。これらの攻防をめぐる記述は手紙の各所に見られます。
たとえば、コリントの信徒への手紙二の11章22節以下には「彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。」とあります。ここでは、自分は生粋のユダヤ人であることを、これでもかというほど、パウロは強調しています
フィリピの信徒への手紙で「肉に頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。肉に頼れると思う人がいたら、わたしはなおさらのことです。わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ち所のないものでした。」と断言したパウロが、どんな思いで、自分の気持ちをコリントの教会員に伝えようとしていたか、先ほどの文章からは、その思いが読み取れます。神に選ばれた民、選民としての誇りが色濃く残る空気の中で、パウロは、本当にユダヤ人かどうか、その民族的出どころを執拗に問われていたのでしょう。
また、10章11節には「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱弱しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいりからです。」とか、11章5節以下には「あの大使徒たちと比べて、わたしは少しも引けは取らないと思う。たとえ、話しぶりは素人でも、知識はそうではない。」といった文章も見られます。そこには、教会創立者への尊敬も尊厳も失われていた教会の現実が読み取れます。パウロは、何を語り伝えたかでなく、見た目で軽蔑され揶揄されてもいたのです。

しかしパウロは、そこに深い神の御心を読み取ります。伝道旅行の先々で迫害を受けながらも、人々の無理解に立ち向かい、福音を語り伝え、その結果、疲労困憊し、行き詰り、失望し、見捨てられているような、打倒されたような惨めな憔悴しきったパウロの姿を見て、偽教師たちは、これが神に召された伝道者と言えるか、これが、神に選ばれた民、選民イスラエル民族の血を引く人間か、といった中傷を交えながら、パウロの使徒職を否定していたのでしょう。そして、これが、開拓伝道とその後の教会形成の現場で、パウロが直面した現実でした。しかし、コリントの信徒への手紙二の冒頭にある言葉を重ねていえば、パウロにとっては、これこそが、「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となった」、その確かな証拠に他ならなかったのです。

パウロは、伝道や牧会で直面する数々の苦難に隠された真実、即ち、主イエスの十字架と復活を通して明らかにされた永遠の命とそこに約束された希望、その真実に支えられ生かされていた人でした。だからパウロにとっては、福音宣教に伴う苦難とそこで明らかになる弱さとは、単なる苦しみでも弱さでもなく、むしろ、それこそが主イエスの十字架の苦しみを受け継いだ正統的使徒の証拠であり、かつ、この苦難と貧弱こそが正統的使徒にとっての必須要素、主イエスの僕に欠くことの出来ない要素でもありました。

主イエスの僕としての伝道も、一言でいえば愛の業です。個人的な情にひかれたり、私利私欲を図ったりすることのない無私の愛に基づく、実り少なく苦労多き働きです。しかし、苦難の主と表現されるイエスにまでさかのぼるこの愛が、人々に救いをもたらすのです。そして、その愛に秘められた救いの力は、福音宣教の現場で直面する大小様々な苦難を通して、具体的にこの世に姿を現わします。
私も教会の現場にあったとき、苦難を抱えた人たちに、いとも簡単に、それが当然であるかのように、「大丈夫ですよ」とか「なんとかなりますよ」と言ってきましたが、それは、自分ではどうすることもできない弱さを、いつもどこかに引きずりながら教会員と共に祈りつつ歩んだ、その歩みの中で熟していった信仰の告白、換言すれば、教会の中で蒔かれ、芽を出し、育ち実を結び、共有した言葉だったことを思うのです。
だから、冒頭に引用した「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない」というみ言葉は、私たちの信仰生活の足跡を重ねることの出来る言葉であり、今日の聖句にある「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」という言葉は、そこに生きる私たち信仰者の姿です。そして、これらの足跡も姿も、神の偉大な力に信頼を置いた信仰生活と深く結びついています。その偉大な力とは、弱さの象徴でもある土の器に隠された目に見えない力、復活の力です。

復活の力についてパウロ書いています。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています。」「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」
内なる人は見えません。しかし、その人の内にある見えざる復活の力が、日々に衰え、朽ちていく弱くもろい肉のわたしたちを根底から支えています。
わたしの心に今も残る言葉の一つに「宗教とは、人生を裏返しにした世界の発見、つまり、生かされ支えられている世界の発見である。」があります。主イエスの十字架の死からの甦りである復活は、今まで知り得なかった人生の裏を、照らし出したのです。四方から苦しめら、途方に暮れ、虐げられ、打倒されるような人生を、主イエスの十字架と復活によって裏返ししてみての結論、それが、「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べ物にならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。」という言葉です。これこそが、苦労多いわたしたちの人生に約束された、永遠に朽ちることのない神からの贈り物、福音です。

今日の聖句に思いを巡らしていて、宗教改革者マルティン・ルターの言葉として伝わっている言葉を思い起こします。「たとえ明日、この世界が滅亡しようとも、今日、私はリンゴの苗を植える」
わたしは、農村育ちなので、種まきや苗には、特別な思いが去来します。苗が豊かな実りの時を迎えるという確かな保証はありません。むしろ、台風とか、害虫とか思わぬ災害に襲われ、全滅することもあります。しかし、種はやがて実りの時を迎え、収穫されたものは農家の手を離れ、未知の家庭の食卓を豊かにしている風景を、種まく人は描いているのです。台風や害虫に支配され、影響されるのではなく、土の中に隠された命をはぐくむ力を信じ、明日の稔りの豊かさを期待し、明日にすべてを託する人たちの姿、振る舞いがここにあります。更に、このルターの言葉は、復活を信じつつ苦労多き信仰生活を続けている人たちの姿のも重なるのです。
わたしたちは、その働きで味わう苦難と自らの無力と存在の小ささの故に、苦しみ悩みます。しかし、わたしたちの信仰に根差した愛の業が、キリストの愛を証するその歩みが、実を結ぶことなく消え去ることはありません。わたしたちは主イエスを復活させた神が実を結ばせる世界、復活の力がわたしたちを支えている世界を生きているのです。
「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」 これは、礼拝をする群れ、キリストの福音を延べ伝える群れへのエールです。なぜか、これこそ、復活のリアル、からだの甦り、永遠の命を信じて生きる人のあるがままの姿だからです。

最後に、今日の礼拝のために選ばれているもう一か所の聖句に触れておきます。今日の招詞は主イエスの告別説教の一節です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」主イエスの遺言ですが、言葉は続きます。
<ヨハネによる福音書15章6節~8節> 引用
主イエスの復活と共に、心に留めておくべきみ言葉の一つです。