日本キリスト教団 東戸塚教会

2026.3.15「これに聞け」

Posted on 2020. 3. 29

「これに聞け」 牧師 松江 新一
(出エジプト記24章12~18節)
(マタイによる福音書17章1~8節)

今日わたしたちに与えられたみ言葉は、「山上の変貌」と呼ばれている出来事です。わたしたちキリスト者にも当てはまる信仰の最も深い秘義を現しています。
この出来事は、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書が相当細かい部分まで一致して語り伝えていますが、それとともにこの出来事のクライマックスとする話の流れ自体がみんな共通していることが注目されます。
今日のみ言葉の前の章で、ペトロがイエスさまに対して「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白し、それに続いて、イエスさまはご自身の十字架の死を告げられ弟子たちに対して、「自分の十字架を負って従え」との命令が与えられ、それに続いて今日の出来事が語られているのです。言い換えると、キリスト告白と十字架を負って従うことと、主の栄光を垣間見ることのこの三つが信仰の側面として切り離せないように結びついていることを示していると言うことが出来るでしょう。そのことを踏まえて、今日のみ言葉を聞きたいと思います。
イエスさまは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子を連れて「高い山」に登られました。この言葉からすぐにいくつかの山が思い起されます。
一つは、旧約の信仰の出発点、モーセが十戒を授けられたシナイ山、あるいはまた、予言者エリヤが、イスラエルの信仰の危機、自分自身も破れズタズタになった時に,主に対面して再び立ち上がって行った「神の山」あるいはまたイエス様が朝早く祈るためによく上られた山です。それは、信仰の出発点であり、立ち直り点でもある場所の象徴的表現です。それはわたしたちにとっては、日常生活の場からあがないだされて来るこの礼拝の場であると言えるでしょう。その所で彼らはイエス様の姿が変わるのを目撃したのです。
顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった、太陽のように輝く顔は神さまご自身の顕現の描写に使われており、白く輝く服は御使いの出現によく用いられています。つまり人間イエスとして地上を歩まれたイエスさまの中に神の子の栄光が秘められており、十字架の姿の中に神さまの愛の勝利が秘められていることを彼らはここで見たのです。そして、「モーセ」と「エリヤ」が現れてイエス様と語り合うのを見ます。モーセは、旧約の律法を代表し、エリヤは予言者を代表します。ですから、旧約聖書全体を代表する二人の人物がイエス様と語り合うのを見たことになるわけです。それは、とりもなおさず、イエスさまが旧約の歴史全体をふまえて、そのしめくくりとしてここにおられること、そしてこの「山」こそモーセの山、エリヤの山に匹敵する新しい出発の「山」であることを示しているのです。こうして、このイエスさまこそ旧約全体を踏まえて神さまが送られた栄光のみ子であられることを目の当たりにした瞬間、この素晴らしい瞬間に長く留まっていたい、できれば、もうそこから離れずにいたい、そう思うのは当然と言えるかと思います。ペトロはここに仮小屋を建ててと提案します。もうあの俗世界に帰りたくない、この素晴らしい瞬間に留まっていたいと、しかし、信仰生活というものは、神の子の栄光を目の当たりにする素晴らしい瞬間に長く留まることは許されないのです。私たちが今捧げているこの礼拝の時、神さまとの交わりを実感する時間、それは信仰生活のほんの一部に過ぎないのです。そこに留まることは許されません。そこに仮小屋を建てようとしてはならないのです。みなさんが藤田先生を囲んで、愛する兄弟姉妹とみ言葉に触れ、共に讃美するこの礼拝の場がどんなに素晴らしくてもずっといてはいけないのです。
このペトロの言葉に対して与えられた答えは、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者、これに聞け」という言葉でした。旧約では「わたしの愛する子」は、王の即位式の言葉で「王」としてのメシヤを指します。「心に敵う者」とは、僕の姿において人々に道を示すメシヤを表しています。
つまり、イエス様の人格の秘密を啓示するこの二つの言葉に、「これに聞け」という言葉が加えられるのです。ここで示されたイエスさまの「輝く顔」「白い服」「モーセ」「エリヤ」もそれら皆一つの「天これに聞け」という一点に集約されていきます。
イエス・キリストの言葉を聞き、それに執着して行かなかったらどんなに素晴らしい宗教的体験も意味をなくすのです。この方こそメシヤである、だから今やこの方の言葉に聞き従え、これがこの体験の総決算なのです。「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」 神さまとの出会いは同時に神の前に立つことのできない自己の発見でもあります。顔をあげることさえできない恐れをもって神の前に倒れ、伏せざるを得なくされます。
そのときイエスさまは近づいてきて、彼らに手を触れて「起きなさい、恐れることはない」と助け起してくださいます。
この十字架の主の助け起こしなしにどうして神さまの前に立つことが出来るでしょうか?彼らが助け起こされて」みるとイエスさまのほかには誰も見えませんでした。今弟子たちは自分たちを助け起こして下さる方の秘義を見て、十字架を負うことの喜びを知った者としてそこにいたのです。彼らは山を下ります。再び世俗の世界へ十字架を負う者、仕える者、与える者として、そのことの中に、神の栄光を喜び見る者として、世の人々の元へと帰って行くのです。わたしたちの貧しい信仰生活の中のひらめきのような一瞬、イエス・キリストの栄光を垣間見る「高い山」での一瞬、礼拝の中でわたしたちはそれが与えられます。日常連続的に体験する信仰生活は、自分が十字架を負うという言葉が迫りくるように思われることが多々ありますが、その思いを貫く稲妻のような一瞬が、わたしたちの歩みの破れの中に潜む栄光を照らしだすのです。イエスさまと共にそこは、問題の山積する世ではありますが、今日も喜びをもって「山」を下りたいと切に願っています。大丈夫、イエスさまは、こう言っておられます。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」