「深慮遠謀の主・イエス」 牧師 佐藤 千郎
今日の箇所は、主イエスがキリストとしてのご生涯のクライマックスをお迎えになった時の、弟子たちの様子の一端を伝えています。主イエスが、ご自身の受難についてお話になったときどうであったか、その時の弟子たちの振る舞いが読み取れます。今日は、このことを通してルカ福音書は何を伝えようとしているのか、そのことに注目して、読んでいきたいと思います。
エルサレムへ上る旅の途中、それも旅の終わりが近づいた時のことです。先ほど読まれたように、「イエスは、12人を呼び寄せていわれました。『今、私たちはエルサレムへ上っていく。人の子について預言書が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾を掛けられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。』(主イエスの十字架と復活は神のご計画であり、預言者を通して、その日が来ること、即ち約束の成就が預言されていたということです。)」。
弟子たちへのこの言葉は、主イエスご自身が語られた受難予告です。イエスの受難が神のご計画であり、受難の項目もまた、預言者によって預言されていたものであることを示しています。さらに、小見出しに「イエス、三度死と復活を予告する」とあるように、今回の予告が初めてではありません。最初の予告は、ペトロの信仰告白に続いて語られています。
<ルカによる福音書9章18~22節、p.122> 引用
主イエスは、ペトロの信仰告白の時を待って、受難予告をされたのです。このペトロの信仰告白について、マタイ福音書では、マルコ福音書にはない言葉を加えています。それは、
「シモン・ペトロが『あなたはメシア、いける神の子です。』と答えた。すると、イエスはお答えになった『シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現わしたのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。』」という言葉です。十字架の出来事と信仰告白とは、深く結びついた事柄です。キリスト教会は最初から、十字架と復活は、主イエスの父である神の導きによる信仰告白がなければ、理解できない出来事であると位置づけています。 パウロもまた、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです。」と書いています。
ところで、ルカ福音書には、マタイ福音書にあるこの言葉がありません。その代わりというか、ルカの信仰に基づいてというか、大切な言葉が34節に挿入されています。
今朝は、ルカがこの言葉を挿入したことに注目して、メッセージを汲み取りたいと思いますが、この言葉に入る前に、まず確かめておきたいことがあります。それは、今回の受難予告が三度目であるということです。聖書で三度というのは、多くの場合単なる回数ではありません。今日の箇所もそうです。ですから、受難予告の最後となる今日の聖句から読み取れることは、ペトロの信仰告白後の旅の途中、機会あるごとにお話になった受難予告は、もうこれ以上話すことはないといえるほど、主イエスは弟子たちにお話になったということです。主イエスのみ言葉と奇跡を含めた行いの全てが、主の十字架と復活に関係していたからでしょう。
ところが、主イエスが三度目の受難予告をされた後の弟子たちについて、34節で「12人はこれらのことが分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」との言葉が、ルカによって挿入されています。この挿入によって、受難予告に込められた十字架の意味を理解できなかったのは、弟子たちの責任ではなかったということが強く示唆されています。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
受難予告について、弟子たちは、主イエスから何度も、それこそ耳にタコができるほど聞かされていながら、理解できなかった。それは、神の独り子イエスが十字架にお架かりになるその意味が、神によって隠され閉ざされていたからだと、ルカは書いているのです。イエスが十字架に架けられる以前に、受難の意味を弟子たちに語ることは、神の秘密事項であったのです。
そこには、「神が定められて時」へのこだわり、即ち、神の定めの時が来なければ、十字架と復活に込められた真実は明らかにされないとの、ルカ固有の信仰理解が関係していますが、その説明は側において、この言葉から浮き上がる現実に、心傾けたいと思うのです。
それは、神が見捨てられたと思わざるを得ないような苦難、人が神の助けを最も必要としている時、人はなぜこのような惨たらしい仕打ちを受けるのか、その意味が、神によって隠されているという、私たちにとっては、時に耐え難くつらい現実だからです。
この状況をご自身のこととして考えてみてください。主イエスの弟子たちは、イエスが大変な苦難をお受けになることをあらかじめ知っていたが、その苦難・十字架の意味については、知らされていなかったのです。だからこそ、このお方こそ、神の御子メシアであると得心し、神からのメシアですと告白した弟子たち、即ち、かつてのダビデ王国を頭に描きつつ、イエスと苦難を共にすることを覚悟しつつもエルサレムでの勝利を確信してイエスに従っていた弟子たちは、十字架の意味を知らされないまま、主イエスの十字架のお苦しみに直面せざるを得なかったのです。
この時の弟子たちの失望落胆は計り知ることが出来ません。そして、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と祈りつつ、その苦しみを吐露しつつ、息を引き取られた主イエスを見捨て、裏切った弟子たちに、わたしもまたその一人となったであろうとの思いを禁じ得ません。
そして、この箇所を読みながら、私たちが遭遇する苦難もまた、しばしば神への信頼を根底から揺り動かす不気味さを宿していること、しかも、その理由が神のよって隠されているが故に、なぜ苦しむのか、それに対する正解を持っていないわが身に、改めて気づかされることです。苦難に伴う不条理や理不尽の原因は、神の側にこそあるのではないかと叫びたくなるほどです。
ところで、ルカによる福音書は、先に読まれていたマルコ福音書を底本に編集していく中で、独自の構成をしたのです。それが、「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」という言葉の後に続けて、、「エリコの近くで盲人をいやす」との小見出しがある物語を持ってくるという作業です。マルコ福音書では繋がっていなかった物語をつなげることによって、ルカは、「彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」という言葉に隠された意味を、明らかにしているのです。
物語の内容は、お分かりの通り、道端で物乞いをしていた盲人の癒しです。その詳しい内容には触れず、40節以下の言葉に注目したいと思います。
<18章40~43節> 引用
マルコ福音書には、「見えるようになれ。」との主イエスの言葉はありません。ここでもルカはマルコ福音書にない言葉を挿入するのです。そして、ルカはこの言葉を、34節の「12人はこれらのことが分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。」に対する答えとしたのです。
ルカは「エリコの近くで盲人をいやす」物語に、「見えるようになれ。」との主イエスの言葉を挿入することによって、閉ざされている神のみこころは、主イエスが十字架と復活を通して明らかにされることを示唆しています。そして、この示唆は、不条理で理不尽であっても時が来れば、その苦難の意味が、神によって明らかにされることを、今日の私たちにも気づかせます。
さらに、その内容は、驚くべきものです。ヨハネ福音書に、盲人の目をいやす物語があります。
<ヨハネ福音書9章1~3節> 引用
当時、生まれつき目の見えない人は、差別され、社会生活からは排除されていましたが、その理由は人々によって神の罰と関係づけられていました。しかし、主イエスは、生まれつき目が見えないそのことには、深い理由が隠されている。「この人が、生まれながら目が見えないのは、神の恵みが現れるため」と言われたのです。目が見えない苦しみを通して見えてくる恵みがあります。
主イエスの十字架に立ち会った弟子たちは、十字架に隠されていた意味を知らされていなかったが故に苦しみますが、やがて、復活のイエスとの出会いを通して、この世で遭遇する苦難もまた真の救い、神が約束された平安への道、神に近づく一里塚であることを明らかにしたのです。
復活を先取りして言えば、復活の喜びは苦難の中に隠されています。そして、このことに信頼を置き、このことを希望の基として生きていく、その姿を信仰生活と言います。
このように今日の箇所を読んできて、私の頭に浮かんだのが、「深慮遠謀の主・イエス」です。深慮遠謀は四文字熟語の一つです。深慮とは相手の状況を深く考え、その気持ちや事情を思いやることです。遠謀とは遠い将来まで見通したはかりごとです。そこから深慮遠謀は、遠い将来のことまで考えて、周到な計画を立てることを意味する言葉として用いられます。
私たちの救い主は、「深慮遠謀の主・イエス」です。即ち、わたしのために十字架に架かり、三日目に復活された主イエスは、私たち一人ひとりの遠い将来のことまで考え、周到な計画を立て、人生の旅路を私たちと共に歩まれるお方に他なりません。
もう一度言います。復活の喜びは苦難の中に隠されています。主が見放されたり、見捨てられたりする苦難はありません。理不尽で不条理な人生であっても、希望を失うことなく、十字架と復活の主を信頼しつつ、受難と向きあうレントの季節を、勇気をもって歩む者でありたいと思います。
復活の喜びは「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ぶほどの苦難の中に隠されています。そして、これが、十字架と復活の主イエス、またの名を「深慮遠謀の主・イエス」と呼ぶお方が、私たちに仕掛けられた恵みの人生です。