日本キリスト教団 東戸塚教会

「聞いて信じる」 牧師 藤田 穣
(ヨハネによる福音書4章39~42節)

聖書 ヨハネによる福音書4章39~42節
 04:39さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。 04:40そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。 04:41そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。 04:42彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 4章の最初から学んで参ります。
 イエスが洗礼を授けて、バプテスマのヨハネより、多くの弟子たちを集めていたことが、敵対するファリサイ派に知れたことが分かると、イエスはユダヤを去ってガリラヤにゆかれる。ガリラヤに行く一番の近道は、サマリヤを通ることであった。しかし、多くのユダヤ人は、エルサレムからエリコに下り、ヨルダン川沿いを遡ってガリラヤに行った。
 何故か、ユダヤ人とサマリア人は仲が悪く、絶交状態にあった。それにもかかわらず、イエスは、サマリアを通るのが普通であった。「通らねばならなかった」には、「ねばならない」の意味があり、神の御心を感じて、サマリアを通られたのであろうか?
 そこで、イエスは、スカルの町のヤコブの井戸で休憩する。旧約聖書では、アブラハムやヤコブが住んだシケムとして知られ、ゲリジム山の麓にある美しい村であった。旅に疲れたイエスは、井戸の脇に腰を下ろされた。時は12時頃であった。弟子たちは食べ物を買いに町に出かけていた。
 そこに、一人のサマリアの女性が水を汲みに来る。砂漠の暑い気候の地帯、昼頃、水を汲みに来ることはあり得ない。人目を避けての水汲み、女性が訳ありだということが想像される。
 イエスは、女性に水を所望した。しかし、女性は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。また、当時、ユダヤ教のラビが、女性に対し話しかけることは絶対になかった。
 何故、ユダヤ人はサマリア人と交際しなかったのか。もともと、サマリヤは、イスラエル北王国の首都であり、南のユダとイスラエルを形成していた。紀元前721年、アッシリアがサマリアの北王国に侵入、征服し、主だった人を捕虜とし、アッシリアに連れ去った。征服者アッシリアは、入れ替わりに他の民族をサマリアに連れてきた。残ったサマリアの民は、異民族と結婚することになり、民族の純粋性を失った。これは、民族の純粋を貴ぶユダヤ人に取って、これゆゆしきことであった。BC586年、南のユダの人々もバビロンに占領され、バビロンに捕囚されたが、彼らは頑強に変わることなく、ユダヤ人の純粋性を保った。バビロンから戻ったユダの人々が、神殿を再建しようとしたとき、サマリアの人々が援助を申し出たが、援助して欲しくないと断った。ユダヤ人は、サマリア人を軽蔑し、こうして、ユダとサマリアは、にらみ合い、憎み、互いの交友は復活しなかった。
 10節 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」
 サマリア人は、ヤコブの子孫である。貴方は、汲むものを持たないのにどうして、生きる水を手に入れるのか?
 女は、あくまでも地上の水を考えている、イエスの言われる生きた水は、神から流れ出る命の水、救いの水のことである。
 13節 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 女はイエスの言われる意味が分からない。しかし、彼女は,主よ、と呼び、二度と渇くことが内容、二度と汲みに来ることがないように、その水を下さいと言った。
 16節 イエスが「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
 イエスの心臓を突き刺すような一言に、女の魂が呼び覚まされた。彼女は真実を告白する。「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。 あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」 女の身持ちの悪さを指摘した。ユダヤ人は、神とイスラエルの関係を夫と妻の関係になぞらえた、5人の夫は、5つのサマリアの神々である、そして、今の夫は、真の神ではない。そうともとれる。
 サマリアの女は、彼女の心の内を熟知しているイエスに驚いた。詩編139篇に、「主よ、あなたはわたしを究めわたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 歩くのも伏すのも見分けわたしの道にことごとく通じておられる。 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに、主よ、あなたはすべてを知っておられる。」(詩編139篇1~4節)
 「あなたが言ったことは真実です。主よ、あなたは、預言者だとお見受けします。」そして、この女に変化が起きる。
 
 再び渇くことのない水を飲むとは、真の礼拝をする、霊と真をもって礼拝することなのです。
 主よ、貴方が言う神礼拝と、サマリア人の私たちが考えている神礼拝は違うと問うた。20節、「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」 イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」
場所はどこでも良い。神は霊である。物や場所に捉われる方ではない。天地の創り主、全能の神、霊なる神を礼拝するならば、どこであっても良いのです。神は霊である。現代の神学者パンネンベルクという人は霊(プニューマ)は伊吹であり、風であると訳しています。「神は我らの人生を吹き抜ける伊吹である、全ての命を吹き抜ける真理と自由の源である」(パンネンベルク) 初代教会の使徒たちの福音宣教を動かしたのも神の霊、聖霊でした。
23節 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。 神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」 女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。 「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
女は、イエスの言葉を理解し信じたのです。英語で、「理解する」「分かる」は、UNDERSTAND で、これを直訳すると「下に立つ」ということです。それは、尊敬と信頼を持って発せられる言葉です。サマリアの女は、「I AM UNNDERSTAND」と謙虚にイエスの許に立ち、感動と喜びを持ってイエスをメシアとして迎え告白したのです。
サマリアの女は、大事な水瓶を置いたまま、町に行きます。これは、これまでの彼女の価値観を変えた、方向転換でした、
身持ちが悪く人々と接することを避けていた女性が、町に行き、人々に、イエスをメシア(救い主)と告白したのでした
04:30人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。
39節 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じたのでした。
40節 イエスのもとにやって来たサマリア人は、、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。
この2日間は、シカルの町にとって意味深いものとなりました。「滞在する」と訳されている言葉は、イエスが弟子たちに言われた、15章5節「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。」つながると同じ言葉であり。15章9節「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。」の留まりなさいと同じ言葉です。
「つながっていなさい」「とどまっていなさい」このことばに、イエスの2日間の滞在の意味があります。主イエスが泊まられ、人々に話されたことにより、イエスの言葉を聞いて、更に多くの人々が信じたのでした。「わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
「本当に世の救い主であることが分かった。」この世の救い主、このローマ帝国のなかで、この世の王は、ローマ皇帝であり、皇帝は、救い主と呼ぶことを強制し、信じられておりました。その中で、イエス・キリストこそ、この世の救い主であると告白することは、ローマ帝国に反する者とされる危険なことでもありました。
 聞くべきは、イエスの言葉です。イエスと弟子たちの福音宣教は、異邦の地ともいえるサマリアにおいて初めて成功したのでした。
42節 彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」
 サマリアの人々は、女性が告白したから信じたのではなく、直接、自分がイエスの言葉を聞いて、救い主と信じたと告白しました。2日間、イエスが留まり、私たちがそのイエスに繋がったから信じたのです。
 私たちの礼拝でもしかりです。説教者が話したから信じるのではなく、その言葉をイエスの言葉として聴くときに、主イエスと繋がり、理解する、信ずることが出来るのです。
「55:10 雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。 そのように、私の口から出るわたしの言葉も空しくは、わたしのもとに戻らない。」(イザヤ書55章10~11節)
 主の口から出る言葉は、雨が大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、実を結ぶように、空しくわたしの許に戻ることはない。
 この神の約束がなければ、私たちの取り次ぐ神の言葉も空しくはならないということです。
 20章29節 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネ福音書20章29節) 見ないで、聞いて信ずる者は幸いである。
 この前の3章に出てくるユダヤの指導者ニコデモは、イエスに、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」しるしを見て信じるのがユダヤ人でした。
 パウロも、「1:22 ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、1:23 わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、(コリント1書1章22節)
1章12節では、しかし、言(神)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた、とあります。
 ユダヤ人だから、サマリア人だから、救われるのではありません。イエスの言葉を聞いて、信じる者が救われるのです。