日本キリスト教団 東戸塚教会

「しかし お言葉ですから」 牧師 雲居玲子

礼拝招詞  ローマ5:5 (招詞 No.53)
讃美歌  前 464(ほめたたえよう)
後 467(われらを 導く)
聖書箇所  ルカ 5:1~11

 イエス様は、その活動をなさるときに、弟子たちをお用いになりました。 常に、近くには12人ということは良く知られていますが、 しかしもっと広い意味では、イエス様に出会った人々が次々と従って、弟子とされて行きました。それはイエスが十字架の死を遂げられた後にも起こって、例えば、パウロなどは、その最たる人でありました。 それらの弟子たちによって、イエス様の「救い」の御業は広められたのです。そして私たちもまた イエス様の弟子とされているのですから、「弟子」の存在はきわめて重要です。

 彼らがどのようにして、弟子になったか ということを、聖書は大切に記しています。 今日の箇所もその一つ。

 イエス様は、ゲネサレト湖畔に立っておられます。いわゆる「ガリラヤ湖」のことで、ここが公生涯の前半の活動の中心でありました。

すると、そのお話しを聞こうとして、「群衆」が押し寄せてきました。 大勢の中に埋もれて話したって、みんなに聞こえるわけがありません。 そこでイエス様は、ご自分から距離をとろうと、舟に乗り、湖面に出て、舟の中から、岸に居る群衆に話をしようと思いつかれました。 岸辺にあった二そうの舟の一そう、シモン(ペトロの事ですが)の舟に乗りこまれます。この少し前から、シモンとは面識があったせいもあるのだと思います。

 この時、彼らは、夜通し漁をして引き上げて来たばかり、クタクタに疲れていたはず。 それに、漁で傷んだ網の手入れもしなければならないし、こんな時に部外者が入って来るのは、全く迷惑千万な話なのです。 でも、まあ、先生のおっしゃる事ですから、彼らはそのとおりにしました。

 イエス様は、舟の中に腰を下ろすと、岸の群衆に向かって話をなさいました。 何を話されたのか、聖書はその内容は記していません。 ただ、離れた岸辺にいる大勢の群衆に届かんと、大きな声でお話しになったことでしょう。

 小舟が説教講壇になったようなものです。 当然、シモンは、自分の舟の中で、イエス様のすぐ間近で、いわば、かぶりつきの特等席で、主の言葉を聞いたのです。

 さて、イエス様は、話し終えるとシモンに、(4)「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とおっしゃいました。このまま沖へ出て、魚を漁れと言うのです。 これは、非常に唐突な、また、常識外れの話しです。 シモンが(5)「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と言っていることからも分かる通り、 漁は夜中にするものであって、こんな真っ昼間に網を降ろしたって魚がとれるはずがない というのがプロの漁師であるシモンたちの常識でした。 それに、ついさっきまで漁をしていて、何もとれなかったのですから、イエス様の言葉は、プロの目から見たら まったく素人のたわ言です。

 それでも、彼は、(5)「しかし お言葉ですから、降ろしてみましょう」と言うのです。 普通なら、「しかし、お言葉ですが」と、反論するところでしょうに。  そんなに云うのなら、まあ、仕方ないというあきらめではない、投げているのでもない、

強引さに押し切られたというのでもない。 では、何なのでしょう?

 イエス様は、昨夜の徒労の末、身も心も疲れ果てている者の 正面に立ち、真っすぐにこちらを見つめて「沖に漕ぎ出して、網を降ろし漁をしなさい」などと言う。 こちらが、「まさに それをしてきて、できなかったのです」と言い返したいのに、はばからずその所に触れて、仰る。  何か、説明はつかないのだけれど、この方には何かが、ある。 彼らは そう感じたのではないでしょうか。 イエス様という方は、そういうものを湛えておられます。

 彼らは、言われた通りに沖へ漕ぎ出して、網を降ろしてみました。 すると、(7)「おびただしい魚がかかり、網が破れそうに」なりました。 なんということ! したことが徒労に終わって、たまらない疲労感と 深い落胆の中に在った彼らに、思いもかけない 網の手ごたえ。 それも、とれるはとれるは、仲間の舟まで呼んで積ませてもらうと、二隻とも沈みそうになるくらいでした。(7)。彼らは、びっくりしました。 ただ、豊漁で良かった、ラッキーだった、人の言うことは聞いておくものだというような、ご利益みたいな受け止めではありません。  奇跡です。 彼らは、恐れにも似たものを感じたのです。 何か、大きなもの、それは「恵み」と言うしかない、圧倒的に押し寄せて来る「恵み」を、彼らは体験したのです。

すると彼らは どうしたか。

ここは大切なポイントだと思うのですが、シモンたちは、この恵みの体験によって、弟子になったわけではないのです。 「こんなに良い事がありました。だから、あなたについて行きます。あなたの弟子になります」と、言ったのではないのです。 この、圧倒的な恵みの体験が、彼らが主イエスの弟子となるための 備えになったことは確かですが、大切なのは、彼がイエス様の足もとに(膝元に)ひれ伏して、(8)「主よ、私から離れてください。私は罪深い者なのです」と言ったことです。

ほとんど、叫ぶように言ったこの言葉は、深い恐れの表明です。 「私は罪深い者です」というのは、「あなたは、神様です。 私は、破れ大きな者ですから、とてもあなたのみまえに立つことなどできません」ということです。

彼は今まで、平気でイエス様の近くに居ました。 自分の舟にお乗せして、間近に座ってみ言葉を聞いていたのです。 「ほかならぬあなたがおっしゃるのですから やってみましょう」なんて言っていたのです。 しかし今、この奇跡的な大漁、神様の圧倒的な恵みによって、魂を揺さぶられるような体験をしたことによって、彼は、自分が、真の神様のみ前に居るのだということに気づかされたのです。 そして、それと同時に、自分は神様の前に、平気な顔で立っていられるようなものではない、破れの大きい、罪人なのだと気づかされ、ひれ伏さずにはいられなかったのです。

しかし、そのシモンにイエス様は、「恐れることはない」と語りかけられました(10)。 とても神様の前になんか立てる者ではないと、深く恐れを思っている者に対して、神様が語り掛けてくださるこの言葉は、「とても神様の前になんか出られない、私は罪人なのだから」という者を、みまえに連れ戻してくださる言葉です。 「そんなに謙遜しないでもいい」と、姑息なことをおっしゃっているのではありません。 シモンは、そして、私たちもまた、本当は、神様の前に立つことに 深い恐れを抱かずにはおられない者です。 その意味で、罪人です。

そういう者に対して、「恐れることはない」とおしゃる。その意味は、「あなたの罪は赦された」ということです。 このイエス様の言葉を、もっと正確に言い直すならば、「私が あなたのその罪をすべて引き受けた。 それを背負って十字架に上がったのだ。 それによってあなたの罪は赦された。私が引き受けたのだから、だから、あなたはもう 恐れることはない」。ということです。

その上、「今から後、あなたは、人間をとる漁師になる」(10)と言葉が続きます。 今までは、魚をとって、やって来た。魚の事はよくわかり、とり方についても習熟し、自分の舟を持ち、漁の成果も上げ、漁師としてはそれなりに やって来た。 良く生きて来た。これはこれで良かったわけです。

しかし今、全く違う視点が、イエス様によって差し出されました。 「人間をとる漁師になる。」

これはどういうことでしょうか。 「魚もいいけれど、人間をとるという道もある。あなたはどうする? 」と、選択を迫っているのでしょうか?  そういうことではありません。

私たちの抱える課題の大部分は、人間関係の問題です。自分固有の課題であったとしても、それを担って行くに当たって、人間関係の問題が絡んで、問題をさらに重いものにしてしまうということも、良く経験することです。

そういう中で、わたし達は何をしているでしょう。

自分の願うところとあまりにも違う相手。 価値観も何も、違う。 すると、相手が何とかならないものかと思う。 変えてやろう、正してやろう なんて大それたことを考えることもある。 また、それにも疲れて、まあ仕方がない。あちらはあちらで、勝手にやればいい。 そう言って、境界線、バリヤを作り、排除する。 排除という関係を作る。 苦しくなればなるほど、そのようにして、自分を守るということもします。

 等々、いくらもあるわけですが、これらは、私たち人間のサガに関わることですから、心理学、教育学、人間学、あるいは宗教学等々、さまざまの分野からの研究、究明もなされているわけです。それらの知恵に助けられて問題が整理されるということはあります。

でも、「人間をとる漁師」になるとは、そういうことなのでしょうか。

実は、「人間をとる」というのは、聖書の原語を見ると、「生け捕りにする」ことを表わす言葉が使われています。

旧約聖書の用語では、人を生きたまま 危険から救うことを意味します。

ですから、その人がその人として生きられる状態のままで、関係性を作るということだと言えるでしょう。

 イエス様は、弟子たちが、イエス様に従う者たちが、それぞれ接する人々と、そのような人間関係を結んで、生きるのだと言われるのです。

それは難しい、それが困難なのだと、弟子たちも思ったでしょう。 わたし達だって思います。 わたしが、そのようにするのは、極めて難しいと、経験的にわかりますから。 大体自分自身、罪の塊のようなものなのですから、そんなことできる訳がありません。

しかし、イエス様の言葉のとおり読みたいと思うのですが、イエス様は、「人間をとる漁師になるべきだ」と言ってはおられません。 「あなた方は、人間をとる漁師になる」と、言い切っておられます。

ここには主の確信があります。保障があります。  人間関係の「沖に漕ぎ出しなさい」。最後の責任は私がとるから、大丈夫だと。 あなたは、人間をとる漁師になるよ、と。 そういう イエス様の確信がこの言葉には在ります。

その確信、保障の根拠は何なのでしょうか。 そうです。主は、この責任を負って、十字架の上で血を流して下さったのでした。そうなのでした。 それが分かったから、その保障を受けて、「お言葉ですから」、わたしも漕ぎ出して、漁をしてみます。その者を 主はこの舟に一緒に乗って、それをきっと助けて下さるでしょう。

 今週は、この言葉を聞いて、一日一日を、人間をとる漁師となって、主に従って生きたいと思います。