「今日 救いがこの家に」 牧師 雲居 玲子
(ルカによる福音書19章1~10節)
招詞 ヨハネ4:23(No.8)
聖書 ルカによる福音書19章1~10節
説教 「今日 救いがこの家に」
讃美歌21 57(ガリラヤの風 かおる丘で)
433(あるがまま われを)
ある礼拝暦の、今日のために示された箇所が、この物語りでした。今朝はこれによって礼拝を守り、今週を歩む糧をいただきたいと願っています。
「ザアカイ」。 聖書の中ではよく知られている名前。 教会学校の子どもたちも、「ああ、あのザアカイね」と反応します。 では、ペトロやヨハネのように、聖書の中のあちこちに何回も登場するかというと、そうではない。 実は、「ザアカイ」は、福音書の中の、今日の箇所に1回記されているだけの人物なのです。 その彼が、そんなに印象に留まるのは 何なのでしょう。 それは、イエス様と彼との出会いが、絶対的であった、そして、それが私たちの心にも 深く切り込んでくるからです。 今朝の礼拝でもそれが与えられますように。
1節に記されているとおり、イエス様と弟子たちの一行は、今、エリコという町を通っているところです。通ってどこへ向かっているか というと、エルサレムへ。(次のページの下の段、28節以下には、その入城の記事がある。)十字架に揚げられる あのゴルゴダの丘のあるエルサレムが目の前に迫っている、そういう時に今日の出来事は起こったのです。
エリコは、エルサレムへ入る交通の要所であり、人が通ると、通行税や商品の税を徴収する収税所がありました。その仕事をするのが徴税人です。
ところが、当時のエリコはローマの直轄地でありましたので、ここで集められる税金は皆ローマに行くことになっていました。ですから、人々は徴税人をローマの手下と見なし、疎んじていました。ザアカイは、その頭だというのです。しかも、「金持ち」だった。 税金の一部をすくねて私腹を肥やしているのではないかと窺われ(実際そういうことも起こっていたようですが)、とにかく彼は、街の嫌われ者でありました。
そんな中、この日、彼は人々のざわめきを聞いたのでしょう。「イエス様が」とか、なんとか言っている。言葉全体がはっきり聞き取れたわけはないはずですが、でも、彼の中に、ハッと反応するものがあったのです。「イエスだって?! 見てみたい!」と。
どうしてそんな風に思ったのでしょう? それについては、この少し前、15:1にヒントがあります。「徴税人や罪人たちが、皆話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。」これを見て、律法学者達が、「この人は、こんな人を迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出したということがあった。ザアカイは、きっとこの事を伝え聞いていていたのだと想います。 自分はいつもみんなから、蔑んだり嫌われたりしている。けれども、イエスという方は、そういう者に、本気で真正面から向き合ってくださると言うではないか。世の中のみんなとは ちょっと違う。 その方が来るというのだったら、一目見てみたい と思うのは分かります。
群がる人々の後ろからでも見たいと思うわけです。ところが彼は「背が低かった」。そのために、人々に遮られてなかなかイエス様を見ることが出来なかったと言いますが、これは、ただ、身長が低いために 前に人々が居るとその向こうを見ることが出来ないという 物理的な問題ではないと想います。もし彼が人々と親しく、良い人間関係にあったならば、人々は背の低い彼に場所を譲って、前に出してくれたでしょう。しかし、誰もそうはしなかった。むしろ故意に彼の前に立ちふさがって 見えないようにしている。「群集に遮られて見ることが出来なかった」という言葉からは、そんな事が感じられます。彼は、疎外されている、はじかれていたのです。
周りから疎まれている、はじかれている、受け入れらていないーーそれは辛いものです。 ザアカイがそうであったように、それは、(例えば徴税人という)職責上、課せられたという面もあるかもしれない。 あるいは、持ち前の性格や環境による抑圧がもたらしたものかもしれない、どこか軽く見られ、馬鹿にされているんじゃないかと感じもする――その心に負う傷は、簡単に消えるようなものではありません。
親しい知人――その方は 軽い知的障害を持って生きて来た人ですがーーー話題の中に時々登場することがあります。 障碍者枠で入社した会社の社員旅行の時、貸し切りバスで行くときはいいのだけれど、公共交通機関を使う旅のときには、連れて行ってもらえなかった、というのです。「電車の中などで、私が目立つから 社長が嫌だったんでしょ」と、自分で呑み込んでいます。もう50代の後半になるのですが、二十代に味わったことを、今も、何かの折に話題にする。この話しを聞くたびに、私は胸が痛くて言葉がありません。
周りから疎まれている、はじかれている、受け入れられていないということは、吞み込んでいても、何十年経っても、傷は傷なのです。
ですから、ここでザアカイが起こした行動に、私は驚きを覚えます。彼は、周りからの冷ややかな目線を浴びながらも、「走って先回りし、いちじく桑の木に登った」(4節)。 背が低いのですから、走るのも、木に登るのも容易ではありません。必死だったのでしょう。無謀とも、どうかと思うとも言えます。 でも、これで、イエスという方を見られれば、それで目的は果たしたわけです。彼は、「見たいと思った」だけなのですから。
ところが、ここで想定外の事が起こります。 その方が、木の下で止まった。と思うと下から自分の方を見上げて「ザアカイ」と自分の名を呼んだ。
「そこに居る人」とか、一般的な呼びかけではない。自分の名を呼んだ。と思うと、続けて、「今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と。「泊まることにしている」という勢いです。
ザアカイは、びっくりしたでしょう。「何かが違う」と直感したに違いありません。自分がどのようなものであり、どのような人生をこれまで生きて来たか、そして今、この街で、金持ちにはなっているけれど、人々から憎まれ、嫌われ、さげすまれて。自分も、それで結構、だったらこちらだってローマの権力の力を借りて、もっと金を搾り取ってやろう くらいの気持ちだって沸こうというものです。それでもなお、くやしさ、悲しさから救いを求める思いを必死に飲み込みながら、徴税人の頭という役回りを演じている、自分にはそれしかない、そうしか生きられないと思っている。 ザアカイは、もしかして自分自身も気づいていない心の奥底に潜む思いも含め、この方はすべてを知っておられるということを、感じ取ったに違いありません。
急に「あなたの家に泊まることにしている」なんていうのは、随分非常識、迷惑な話のはずなのに、彼は急いで降りてきました。
イエス様を先導して自分の家に向かうザアカイ。目立ったことでしょう。ともかく、彼はイエス様を迎え入れました。 そこで何が語られ、何がなされたかを、聖書は何も語っていません。しかし、その日、ザアカイの人生がまったく変えられたことが明らかにされます。
彼は今まで、孤独な生の中で、おそらく唯一の支えであったに違いない財産を 放棄することをイエス様に表明したのです。(8節)「私の財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 ユダヤの律法には、相手に損害を与えた場合は、どう償わなければならないかということが、事細かに定められています。(レビ記6:5、民数記5:7、出エジプト記22:1,4,7 参照) ザアカイのこの申し出は、その律法の要求以上のものを弁償しますということでありました。ただ、反省しました なんていうことではない。彼は、心底、魂の底から動かされたのだと思います。 「立ち上がって、」そう言ったというのは、その表れです。
外からどのように見えても、自身が内に呑み込んで抱えている物というのは、心の底深くに納められているものです。ちょっとやそっとの事では動きません、消えません。けれども、本当に、自分という人間の真正面に立ち、真っすぐに相対してくださる方の前では、それが動くのです。セッキョウされたのでも諭されたのでも、叱られたのでもないのに、彼は自分から、こう言ったのです。言えたのです。
すると(9節)「今日、救いがこの家を訪れた。」と、イエス様がおっしゃいます。 「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)と言った方が、「今日、救いがこの家を訪れた」とおっしゃったのです。 聖書は、これをリズミカルに、強調して記しています。
人からはどう見られていようとも、実は深く傷ついたもの ザアカイがイエス様に出会ったその日、彼がイエス様を家に迎えたその日に、彼は変えられた。 それを「彼は救われた」と言っているのです。 そのとおりです。
心の奥深くに 癒されないものを抱えている時、傍からはどう見えているかに関わらず、そこには、本当は「求め」が、「救いへの求め」があります。
自分が自分として生きて行けるという希望、そのように生きて行って良いのだという赦しへの求めがあります。「救い」への求めです。その課題そのものがどこかへ消えてしまうのではないけれど、それを持ちながらも、「救い」を求める求めが、在ります。
イエス様は、ザアカイの心の奥に在った その求めに目を留められ、彼の家に泊まられたのでした。まさに、ザアカイのそこのところに出会われたのです。そして、その日、ザアカイは、自分の心の深い所でおこったことを、「立って」表明するくらい、変えられたのでした。救われたのです。彼はどんなにうれしかったことでしょう。 人がイエス様に出会うと、こういうことが起こるのです。イエス様は、そういう出会い方をしてくださる方です。
しかし、ここで、(7節)に、ザアカイがイエス様を家に迎え入れた時、これを見て「つぶやいた」人たちがすでに居たということ、そのつぶやきの矛先は「あの人は罪深い男の所に行って宿をとった」とあるとおり、イエス様に向かっているということは、見逃せないことです。
さらに、この出来事が起こったのは、「エリコの町を通って」(1節)おられた、十字架をすぐそこに控えての事だったことも忘れてはなりません。
ザアカイのような人に関われば、こういうことになるのです。非難の矛先になり、さらには十字架に直結する。そんなことは充分ご存知なのに、イエス様には迷いがありません。周りがどうであろうと、ザアカイ自身が外見どうであろうと、この人は助けなければならない、救いが必要だとお考えになると、真っすぐその人のもとに行き、その名を呼んで、関わられるのです。その日、救いがその家に来ます。 今日、その救いが、この家に、この私たちのところにも来ました。