日本キリスト教団 東戸塚教会

「見えると言い張る罪」 牧師 藤田 穣
(ヨハネによる福音9章35~41節)

聖書  ヨハネによる福音書9章35~41節
09:35イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。 09:36彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 09:37イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 09:38彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、 09:39イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 09:40イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。 09:41イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」

今日は、生まれつき目の見えない人が癒された出来事を通して学びます。
1節 さて、イエスは、神殿からの通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。イエスの視線には、苦しんでいる人が目に留まりました。この人は、道端で乞食をしていたのでしょう。生まれつきの目が見えなかったからです。
弟子たちがイエスに尋ねました。「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」
古代から、人の不幸の原因は、何か悪いことをした、罪の結果であるという因果応報論でした。
旧約聖書ヨブ記の主人公ヨブは、無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていました。七人の息子と三人の娘に恵まれ、03羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多く、彼は東の国一番の富豪であった。 しかし、一日のうちに、息子娘をすべての財産を失う、試練に遭いました。ヨブは立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った。 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」 このような時にも、ヨブは神を非難することなく、「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と彼は唇をもって罪を犯すことをしなかったのでした。
ヨブの苦難は、原因不明でした。しかし、ヨブの友人たちは、「8:04あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ彼らをその罪の手にゆだねられたのだ。」「11:11神は偽る者を知っておられる。悪を見て、放置されることはない。 」などと云い、「 08:05あなたが神を捜し求め、全能者に憐れみを乞うなら 08:06また、神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めてあなたの家を元どおりにしてくださる。」とヨブの罪を主張し、ヨブの苦しみに、輪をかけました。
現代でも、某宗教団体のように、苦しんでいる人の所へ来て、「先祖の因果が子孫に報いたのだ。先祖への供養が足りない」といって多額の寄付を要求する宗教団体もあります。
弟子たちの発言の根拠は、モーセの十戒にありました。「わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、 わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記20章5節)エレミヤは、 「 あなたは恵みを幾千代に及ぼし、父祖の罪を子孫の身に報いられます。大いなる神、力ある神、その御名は万軍の主。」(エレミヤ書32章18節)
生まれつきの盲人であることは、きっと親に罪があるに違いない。これが、彼らの発言の真意です。
これに対し、イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神のみ業がこの人に現れるためである。」と答えました。この男の人の盲目の原因が誰の罪かなどと言及されません。イエスは、過去の罪を切断されました。
イエスの新しい時代の到来を告げる宣言です。イザヤは、「35:5 そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。35:6 そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる。35:7 熱した砂地は湖となり。乾いた地は水の湧くところとなる。」(イザヤ書35章5~7節)
イザヤは、このような新しい時代がメシアの到来において、起こるのと予言しました。まさに、「見えない人の目が開き」
の福音です。
イエスは、どのような苦境の中にある人も、その人に神の御業があらわれるために、生かされていると言いました。
イエスは、その当時の癒やしの方法で、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになり、そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――(即ち、イエスその人と水に出会うこと」、この池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
10節 そこで近所の人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は、「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」

9章13~34節
人々は、目の見えるようになった人をユダヤの指導者ファリサイ派の人々の所に連れてゆきます。彼らは、この人に目が見えるようになった次第を聴きました。ここでは、安息日が問題になります。イエスが目の見えない人の目を開けたのは、安息日だったからです。
「その人イエスは、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者がいた。イエスが目を開けるために泥をこねたのは労働だというのです。安息日には一切の労働が禁じられていました。安息日を守らない罪人は神から来たメシアではない、というのです。
しかし、また、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。まさに、宗教的見解です。
ファリサイ派の人々が大事にする安息日規定は、モーセの十戒を守るために定められた規定です。労働してはならないと人が定めたものです。労働と人を癒すどちらが大切なのか。ファリサイ派が守ることを厳しく主張したモーセの律法はどういう位置づけになるのか。

渡辺純幸牧師がデ・メロ神父の著書「沈黙の泉」を引用しています。「尊敬が行き過ぎると思われるほど師(先生)を慕っていた弟子に先生が言いました。「光が壁に当たると、壁は反射して輝くものじゃ。何故、壁など崇めるのか。光にこそ目を向けなさい。」
ヨハネ福音書の著者が述べようとしているのは、まさに、こういうことではないでしょうか。
世の光と云われる方の許に、永遠の命の御手のなかに生きることが最も重要なことで、モーセの律法、安息日はその信仰生活を支えるものであって、信仰の源ではない、決して光が反射した壁は、光ではないのです。
このことは、著者ヨハネの生きた時代のユダヤ教とキリスト教との問題でもありました。モー律法か、イエスかであります。

ユダヤ人たちは、盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 れでも、ユダヤ人たちはこの人が、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して尋ねました。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」 両親は、「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放する、村八分にすると決めていたのであると、付記されています。
再び、本人が呼び出されます。
24節以下 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人に、「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。…何故、そんなにしつっこく聞くのですか、あなた方もあの方の弟子になりたいのですか?」
彼らは罵って言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」 彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。 生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
この癒された人は、ユダヤ教の指導者たちに対しても臆することなく、己の身に起こった事実を喜びをもって誰に憚ることなく述べています。まさに、神の業がこの人に現れたのです。
見えなかった目が見えたという事実以上のことをこの人は言い表しています。最も、大切な生きる根源、霊的な目。心の目が開かれたのです。彼は、自分の信ずる本分を述べます。
「あの方イエスが神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
ファリサイ派を初め多くの指導者たちが「モーセの弟子」を標榜、告白しました。しかし、この人は、ここに、安息日を顧みず、救いを与えてくださったイエスを神の遣わした人と告白したのです。ユダヤ人たちは、彼を会堂から追放したのでした。

盲目を癒された人が会堂から追放されたことを聴いたイエスは、彼を捜し、出会います。イエスは、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 彼は、「主よ、信じます」と言って、ひざまずいた。
イエスとこの人との出会いは、たまたま出会ったのではなく、イエスが彼を捜し見つけて出会ったのです。イエスは、この人に寄り添ってくださいました。彼の重荷である盲目を癒しました。そして、会堂を追放されたことを聴くと、訊ね捜します。
まさに、神の子の恵みの先行です。ヨハネ15章に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、」(ヨハネ福音書15章16節)とあります。
信仰は、私たちの決断と云いますが、それ以前に神が働かれて導いてくださるのです。私たちの教会員であった、故水谷良樹兄は、高校時代、大学時代と教会に出席していましたが、彼が信仰を告白するに至った言葉が、このヨハネ15章16節、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」でした。
当時の会堂追放は、現代の公民権停止、村八分と同じです。
この人は、その苦難をも乗り越えて、主イエスを信じ、跪き、礼拝をしたのでした。彼は、ただ、目を癒されただけでなく、見えなかった信仰の目、心の目が見えるようになったのでした。

39節以下 イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。 裁くという言葉は、捌く、分けるという言葉です。そこから始まって、善悪を分ける、悪人を悪人、罪人を罪人として、明確にするのが裁きです。黒か白か、見えていないものを分別するのです。この裁きの線が引かれるとそこに出来事が起こる。それが、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」ということです。
イエスは、この世に光として来られたので、イエスによって分離が起こる。光に属する者と、闇に属する者が区別される。
生まれながらの人には、見えること、見えないことを視力として身体的にしか区別できない。しかし、神の啓示の光に、接すると、見えること、見えないことを霊的に理解するようになる。こうして、本質的に物を見ることが出来る。
ここで、イエスは、罪の本質を明らかにされた。罪とは、法律的に不正を行ったというのではない。光が来たのに、光を受け入れない、イエス・キリストを受け入れないそれが罪である。
生まれながらの盲目の人は、イエスを神の子として受け入れ救われたが、世の光イエスに接しながら、受け入れなかった者たちが、盲目のままでいる罪の裁きを受けたのでした。
そこに居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。
イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」
「あなた方は、見るべきものを見ることが出来ていない。それならば、わたしは見えないと言えば、罪を犯さないで済んだのに」ということでしょう。
ここで何が見えたら良いのか。主イエスにおいて起こっている神の救いを見るか、見ないかであります。ファリサイ派の人々にはそれが見えない、ナザレの大工の息子以上のものが見えないのです。その自分たちの見解が正しいと言い張るのです。
また、ファリサイ派の人々は、神の光の反射であるモーセの律法を守ることに全力を注いで、本来、神に立ち帰る者であることを忘れて、神から遣わされた世の光イエスを受け入れることが出来ませんでした。 記者ヨハネは、見えない者が見えるようになり、見える者は見えないようになる。」「見えない者が見えるようになる」この盲人だった人は、目が見えるようになったばかりでなく、永遠の命の道であるイエスを信じるようになりました。肉体の目だけでなく、心の目が開かれたのです。それは、この目で見える命を超えて、永遠の命をみるようになる。全て、現象的にこの目で視力として見えると考えていたのがファリサイ派の人々でした。自分たちは、モーセ律法を通して、神が見えている。それを言い張ること、それは、神に対する霊的盲目であり、彼らの罪があると言われたのです。
私たちが経験的知識にとどまる限りは、イエスについて見えて来ないのです。この生まれつき目の見えない人の癒しのように、経験的知識を超えた出来事との出会い、そこにしっかり、目を向ける時に、イエスとの出会いが始まるのです。

かのナポレオンは、イエスのことを論じている懐疑家たちが、イエスのことを、「偉人であるがそれ以上の者ではない」と簡単に結論付けた。ナポレオンは言った。「自分は人間を知っているつもりである。イエス・キリストは、人間以上の存在である。 「イエス・キリストが人 ただ人に過ぎないとするならば私は言う。全人類の中で彼にのみ私は従い、常にあの人にのみ私はついてゆく  イエス・キリストが神ならば 唯一なる神ならば 私は誓う 天国へも地獄へも私はついていく 地も海も 大空の中にも」と述べたという。
一時は全ての権力を掌中にしたナポレオンでしたが、晩年、セントヘレナ島に追放されました。彼は、神の前に立ち帰り、信仰を告白しました。
ナポレオンの遺書のなかに、 「私ナポレオンは、力の上に帝国を築こうとしたが、イエス・キリストは、愛の上に彼の王国を打ち立てている。」と告白しました。