「学ぶのは 戦うことではない」 牧師 雲居 玲子
招詞 詩編46:10(No.4)
聖書 ミカ書4章1~3節
説教 「学ぶのは 戦うことではない」
讃美歌21 132(涸れた谷間に) 1,2,5節のみ
371(この子どもたちが)
今日の聖日を、日本基督教団は「平和聖日」と定めています。教会は、何時だって「平和」を追い求めるはずなのに、敢えてこの日を定めたのは、6日の広島と9日の長崎(原爆投下の)、また、ようやく戦争が終わった8月15日が この月にやって来るからです。
主イエスは、山上の説教の中で、「平和を実現する人々は幸いである」と語られました。また、その誕生の時には、天使の群が、「いと高きところには栄光、神にあれ。地には平和、み心に適う人にあれ」と大合唱をしたと記されています。「平和」は、イエス様に従う者には、また、教会にとっては、欠くことの出来ないテーマであるのです。
今日は、それを、旧約聖書の預言者 ミカの言葉によって示されたいと思います。
ミカ書は7章から成り立っていますが、これが全部ミカ自身の言葉ではなく、おそらく、後から編集者が加筆した部分もあると、研究者たちは見解をそろえています。その詳細については今は省きますが、実は今日の箇所は、後の編集者の加筆であろうと考えられている部分です。 では、文書として価値が劣るのかというと、そんなことはない。むしろ、ミカという預言者が、全体を通して、何を言いたいのか、彼の預言の信仰の核心は何かを、そこから明らかに知ることが出来るのです。
ミカは、紀元前8世紀の後半(今から2700年くらい前)に、パレスチナにあったユダ王国で活動した人です。日本ではまだ国家も天皇もなく、地域ごとに集落が点在していた縄文時代の頃。その頃すでにパレスチナでは王制が敷かれ国家が形成されて300年も経ており、周辺の諸国との攻防もさんざん経験していたのでした。
ユダ王国は、地理的には、死海の西側一帯に位置していました。 国家は北イスラエル王国と、南ユダ王国に二分されており、それぞれが周辺の大国、アッシリアとかエジプトとかに親密になったり離反したりを複雑に繰り返しており、政治的には不安定な、激動期にありました。
この事態の中で、何人もの預言者が活発に活動しました。イザヤ、アモス、ホセア等、旧約聖書の中にその書が遺されている人たちに並んで、ミカもその一人です。
「おかしい。この状態は、神のみ心に反している」と、彼らは明言しました。イザヤは上流階級の指導者層の外政面に対して、アモスとホセアは、底辺に住む民衆への圧迫や社会不正について、発言しました。 神様のみ心は そうではないと、明言するので、それは裁きの言葉となることが多いのです。
同時代のミカは、腐敗した内政政治をつぶさに見聞きしながら、その中で、人々が何を見据えて生きるべきなのかを語ったと言えるでしょう。
1章~3章は、聖書の小見出しを追っても分かるように、このような国には神の裁きが下る、国の指導者たちの罪は裁かれると、そのことを語ってきました。
その言葉を聞いた民衆はこれをどう聴いたでしょうか。
私達は、現在のこの世にあって、国内についても、世界の国々の実態を見ても、或る意味同じ問いを抱いています。 なぜ戦争は終わらないのか、なぜ応酬の繰り返しが行われるのか、持てる者と貧困なものとの差は どうして是正されないのか、支配するものとされる者という関係は、どうしてなくならないのか…等々、きりがありません。
「平和」って何だろう、「平和」という言葉をどう定義したらよいかと、教会学校の高校生たちと語り合ったことがありました。 みんな本気を出して良く考え、真剣に話し合いました。 「戦争が終わること」「争いが無いこと」「穏やかな状態の事」等々、みんな自分の言葉で表現しましたが、ある人が。「平和は、安心してそこに居られること」だと言いました。 みんな う~んと言って、ちょっと寡黙になりながら、その言葉を深く受け止めました。 その発言した人が、色々な意味で、今、安心していられるということから遠い所に置かれていることを、みんな知っていましたから。
そうです。「平和」とは、安心してそこに居られることです。 たとえ状況が厳しくても、どうであったとしても、でも、「あなたは そこに居て良い。安心して そこに居て良い」と、本当にそう言われるのであれば、そこに、本当の「平和」があります。 もはやこれは「愛」の言葉だと言えるでしょう。そうです。「平和」というのは、究極、「愛」の言葉だと思います。
さて、今日の箇所、ミカ書4章には、「終わりの日の約束」という小見出しがついています。
「終わりの日」。なんの事でしょう。 「こんなことが起こるのは、もう世も末じゃ」と言ったりするけれど、つまりこの先もう何の良いこともない、終わりだ、ということ? この地球が、あるいは宇宙が大爆発でもして吹っ飛んでしまう、そういう、すべての終わる日?
そういうことではありません。
これは、時間の経緯としての「終わり」ということでもありますけれど、その意味から言うと、いわば、「すべての事の 根源、究極は 何なのか」ということと深く関わることです。
それは、神様の「創造」のわざにまでさかのぼります。 すべてのものが形なく、空しさだけが地の面を覆っていた時、「混沌」の中から、神様は一切を創造されたと、創世記は告げています。それは自然科学的なレポートではなく、存在の「意味」の記述です。 すなわち、すべてのもの、すべての事に、神様が関わっておられる ということです。 人の目には混沌としか見えない事であっても、神様は「そこ」に手を伸べ、み業をなされる。神様が関わっておられないことはない。――これが創造の信仰です。
今、ミカは、国の、世界の混沌の中に居ます。そこに居ながら、(1)「主の神殿の山は、山々のかしらとして堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かう。」と、大勢の人々が 神様のもとにやって来る、その様子を彼は、確かに起こる事実として描きました。
さらに、(3)「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。」と。 あっちの大国にすり寄り、こっちの大国になびいては混乱する自分の国の現状の中で、ミカは、神様は、まさにそのことに手をくだし給うというのです。現情は惨憺たるものだけれど、この時も、神様の関わりから漏れてはいないとだと。
それをもっと卑近な譬えを用いて、続けてこう言います。
「彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍を打ち直して鎌とする。」
ミカはモレシェトという地方の出身(1:1)で、都市生活よりも、農耕生活が近かった人のようですから、「鋤」とか「鎌」等、身近にあるものが 引き合いに出されたのでしょう。
わたしは生まれも育ちも横浜という、まあ、こういう都会の育ちですが、ミカのこの譬えには実感があります。今から80年以上前、第二次世界大戦中のこと、まだ5才くらいの時でしたが、私が生まれ育った寺の鐘楼で、朝に夕にお勤めの礼拝をする時を告げていた大きな鐘が、或る時はずされて持って行かれました。あれは、鉄砲や弾にするために「お捧げしたのだ」と大人たちが云っていました。 祈りの時を告げていたお寺の鐘を打ち直して、剣や槍にしたということです。 戦争が起こると、こういうことが、本当に起こるわけです。しかも、しぶしぶ、抵抗しながらではなくて、「お捧げした」というような気持ちにもさせられてしまう。
ミカは、その情況の中で、「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と、真逆な事を言いました。 神様が望んでおられることは、そういうことだ というのです。 神様は万物をお創りになった時、人は鋤を使って地を耕し、鎌を使ってその実りを収穫し、そうやって生きるように、人をお創りになった、人は、何があっても、どんな時でも、その主の創造のわざの中に居るのだ というのです。
そして続けて、こう言います。「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」
今は、国が国に向かって剣を上げては、相手を滅ぼそうとしている。どうすればこの戦いに勝つことが出来るか。どうすれば、相手を滅ぼすことが出来るか。そういうことばかり学んでいる。 この時代の「剣」は今やミサイルに、ひいては 核弾頭ミサイルになり、さらにはAIのボタン一つになってきていますが、そうやって、「国が国に向かって剣を上げる」ということは、2800年前と 少しも変わりません。 人間という者の「罪」と言うほかありません。これは何としても人間に絡みついていますから、本当にどうしようもないところです。
そこに向かってミカは、「いや、終わりの日には、神様は まさに、その所に触れられて、ご自身の力を明らかになさるのだ」と言うのです。
「もはや戦うことを学ばない。」 「学ぶ」という言葉の原語は、「専念する」という意味を持っています。 今は、どうすれば相手に勝てるか、どうすれば相手を負かすことが出来るかと、ばかり考えていると。 この指摘は、そのとおりです。わたし達は、今の社会でも、意志的に、あるいは自分でも意識しないうちに、相手に勝ちたい、相手を負かしたいという流れの中に置かれています。ある意味、そうするのが、この世の中を元気に歩いて行くことだというセンスを、いつの間にか身にまとっています。人間の本性のようなものです。
それを認識しないまま、実はそうであるということが わたし達にはあります。
しかし、ミカは、それが「平和」を壊す。その線を突き進んだところには
「平和」は無いというのです。
そもそも 神様が初めにお創りになった、そのみ心は何であるのかにさかのぼって ものを考える事。これが「平和」を創り出すことにつながるのです。
「もはや戦うことを学ばない。」 学ぶのは、戦うことではありません。専念すべきは、戦うことではない。 問題の渦中にあっても、戦いの真っ只中にあったとしても、専念するのは、「戦う」ことではない。相手を負かすことではない。今、ここで、神様は何をなさろうとしておられるのか、その御心を聴く、学ぶことこそ、専念すべきことだ と言うのです。
「平和は、安心してそこに居られること」だと、ある高校生の言葉を初めに紹介しましたが、これはまことにそうであって、旧約聖書の中で使われている「シャローム」はまさにその意味を持っています。「あなたに平和があるように。」 これが平常の挨拶の言葉として使われ、お早うも、こんにちはも、おやすみなさいも、皆シャロームです。 つまり、ごく身近な、日常的な事から、大きな組織の中でのことも、さらに、国の問題、民族間での問題に於いても、そこで生きている人間一人一人が、「安心してそこに居られる」ために、どうしたら良いのかを探求するのが、平和につながる道です。「学ぶのは戦うことではない」。ミカの言う通りです。
しかし、そう聴いて、この言葉を心に受けておきながら、人間は、またもや同じ愚かさを露呈する。歴史はそれを繰り返してきました。 では、もうダメなのか。真の「平和」が来るということは望みが無いのか。本当はそうだったのです。 でもイエス様は、そのために、その「罪」をご自身に引き受けて十字架に揚げられました。私たちが「安心してここに居ても良い」ように、「平和」の内に生きることが出来るように、その希望をあきらめなくてもよいように、イエス様は十字架を負われたのです。
今、学ぶのは、自分が勝つために戦うことではありません。私たちが専念するのは、罪を赦していただいた者として、深い安心を芯棒のように持って、本当の「平和」を望んでここに在ることです。
讃美歌21 371番を、心を込めて歌いたいと思います。