「イエスは ぶどうの木」 牧師 雲居 玲子
礼拝招詞 エゼキエル36:26,28より (招詞 No.49)
讃美歌 前 518(主にありてぞ)
後 461(みめぐみ ゆたけき)
聖書箇所 ヨハネによる福音書15:1~8
説教題 「主イエスは ぶどうの木」
「わたしはぶどうの木、あなた方はその枝である。」(5節)。 イエス様の言われたこの言葉は 大変印象的で、よく耳にします。 教会では、会の名前を「ぶどうの会」としたり、機関紙を「ぶどう樹」と名付けたり、若者たちは「Little Grape Associate」と横文字をっ使ったり…とにかく、この言葉は、教会にくる私たちには耳慣れています。
それだけに、あまりインパクト感もなく、あ、またそれですか と受け流してしまうような、慣れたキリスト教の世界の言葉になっていると言えるでしょう。
それが、「礼拝暦」によって、今朝の礼拝のために差し出されました。つまり、今週を生きて行くための神様の言葉を、魂の糧を、ここから受け留めなさいと、今朝差し出されているのが、この言葉なのです。
そのつもりで、改めて、この言葉に聴きたいと思います。
たしかに、パレスチナの地方では、今も昔も、果樹と言えばオリーブかぶどう。そのままナマでフルーツとしてというよりは、干してレーズンにしたり、しぼってワインにしたり。種は煎ってコーヒーのように、また、薬としての効果も知られていたようです。
だから、旧約聖書の中にも「ぶどう園と農夫の譬え」(イザヤ書5:1~7)があります。 イエス様もそれを読んでおられたろうし、さらに、ごく身近にあるものなので譬えに使われたのでしょう。それは、そのとおりです。
しかし、この言葉の真意は、これが、いつ、どのような情況の中で語られたかということと深く関わります。
聖書を少し遡ってみると分かるのですが、
P192 初め 12:12 イエス様の最後の週の始まり。エルサレムに入城。
“ 下段 12:27 私は心騒ぐ と。
P194 上の段 13章 最後の晩餐。弟子の足を洗う。
P195 下段 13:30 食事の席からユダが出て行った。「夜であった」。
P196 上段 13:36 ペトロが離れて行くことを予告
そして、その上でのP198。 今日の15章。
こうして見ると、「私はぶどうの木。あなた方は、枝である。 つながっていなければ、実を結ぶことができない」というこの言葉は、いつでも、どこでも言えるような、普遍的な「教え」などではなかった。 もっと切実な言葉だったということがわかります。 聞く者にとって切実というよりも、イエス様ご自身にとって切実な言葉であったのです。
間もなく、自分は去ることになる。 それも、今、歓呼の声を上げて歓迎しているかに見える群衆が、一変して、一斉に「十字架につけよ」と叫ぶ、その声によって、十字架の死に追いやられる。と。
それをすべてご存知でありながら、イエス様の思いは、この時、ご自身の事よりも、むしろ、遺される弟子たちの上に注がれているのです。
自分が去った後、弟子たちはどうなるか。彼らの信仰はどうなるだろう。 これがイエス様の心配でありました。
そこで、彼らにとって最も大切な事、その核心を、明確にお示しになったのが、15
章の言葉です。
従って、「私はぶどうの木。あなた方はその枝である」(5)という言葉も、この視点から 聴き取りたいと思います。
4~5節を、改めて、読み上げてみます。
4. [わたしにつながっていなさい。わたしも あなたがたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、実を結ぶことができないように、
あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
5. わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。 人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。
わたしを離れては、あなた方は何もできないからである。]
ここには、「つながっている」という言葉が何度も繰り返されています。
そして、実は、7節の「いつもあるならば」も、9,10節の「とどまりなさい」も、同じ言葉なのです。 ですから、1節~10節の間に、同じ言葉が合計13回も繰り返されていることになります。
これは、ヨハネ独特の表現で、いわば、「~の中へ」という言葉です。 英語の口語訳聖書では、“in me, and I in you” となっています。 全てを、「~のうちに留まる」と訳した日本語版の聖書もあります。
つまり、この言葉は、主イエスとつながっていること、いわば、内的に「交わり」の中に在ることを示していると言えるでしょう。
「わたしがキリストの内に在り、キリストがわたしの内に居られる」 ということです。
では、キリストがわたしの内に居られるというのは、実際に、具体的には、どういうことでしょうか。
それは、キリストの言葉が、私の内に留まっているということです。
ざわついたこの世の中で、こうして生きている私たち。 しばしば、ガス欠になって失速したり、それ以上前へ進めなくなったりします。 ちょっとしたことで、つまずき、転び、立ち直れなくなるようなこともあります。
そういう私たち一人一人を、神様は観ておられる。見逃し、放っておいたら良いとは思われない。決してそのままにはなさいません。 その人が、その人自身を取り戻すように、さらに前へ歩みを進められるように、手立てを施してくださいます。
何によってか。それはコトバによってです。 イエス様がその人に与えてくださる言葉。 わたしに語ってくださる言葉、私のために備えられた言葉 によってです。
私たちはそれを礼拝の説教で聴いたり、讃美歌の歌詞の中に聴いたり、また、友の姿を通して、神様の言葉が心に聞こえて来ることもあります。
何よりも、ご自身があれだけの苦しみを身に受けられた主イエスの一つ一つの言葉は、この世の悩みや苦しみを負うものの中に、真っすぐに届きます。
「重荷を負って苦労しているものは、私のもとに来なさい。休ませてあげよう。」とおっしゃる。 もうこのまま行くしかないのか…と、すっかり意気阻喪している者にも、そのままで良いから、「来なさい。休ませてあげよう」と言ってくださる。だったら、行ってもいいのだ。 そうであるなら、行こうと思う。
「あなた方はこの世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。私はすでに世に勝っている。」と、主が云われるのなら、それならば、希望を持ってもよいのだと、思い立てる
灼熱の日照りの下で、心身消耗し、座りこんでいた女性は、近づいて声を掛け、傍らに立って下さった主によって、我を取り戻した。
足の不自由な人が 自分の足で立つことができた、 手の萎えた人の手が伸びた出来事を知ると、彼らの中に自分の姿を重ね、そうか、イエス様に出会うと そういうことも起こるのだと、思い直せる。
・・・等々、福音書には、主イエスの言葉、また行動に込められたコトバが満ちています。主イエスの生涯は、そういうコトバを内蔵したふるまいに満ちています。 イエス様の生涯全体が、いや、イエス様の存在そのものが、その意味で、言葉である ということもできるのです。 然り。 「イエス・キリストは神の言」です。
その言葉が、すなわち、イエス様そのものが、私の内に留まっている状態。 これが主イエスにつながっているということです。 ぶどうの木なる主イエスにつながっている ということです。 主イエスの方からそうしてくださるというのが 事実です。
今日の聖書の言葉を読むと、「つながっていなさい。そうしなければ枯れてしまう」と言われている。 とすると、枝の方がしっかりしがみついていなければならない。怠ってはいけないと 鼓舞されているように感じます。
しかし、実は、枝は、つながってさえいれば、木の命が そこに流れてくるのです。
わたしの住む団地は、今から50年も前に、高台全体を切り拓いてできた所です。その草創期に植えられた桜の木がたくさんあります。4月は、居ながらにしてお花見が楽しめるほど見事なのですが、桜の寿命は意外と短くて、50~60年との事。丁度その時期に当たりますので、今年は急に全体の勢いをなくしているようです。春の大嵐の日に、大きな一本が根から倒れました。
ところが、しばらくたって傍を通りますと、むき出しになった根のほんのわずかな部分が、なお、地面に触れています。そして、倒れた木の枝の先に、健気にも、美しい花が数輪咲いているのです。 枝の方が懸命にしがみついているようには見えません。 むしろ、木そのものがこんなに無残な姿になっても、その幹には命がある。枝は細くて立派ではないけれど、この幹につながって、こうして、美しい花を咲かせているのです。 つながってさえいれば、です。 わたしは、嬉しくなって、しばらくその倒木の傍に立って 眺め入っていました。
今日の所で、主イエスが云われた「つながっていれば」という言葉は、それです。
ご自身は、世の嵐によって、バッサリ倒されるように、無残にも いのちを断たれようとしている。 それを避けも拒みもなさらず、その苦しみを負って前へ進んでおられる。 その幹には、みすぼらしい外見とは裏腹に 神様からのいのちが満ちている。 一人一人を、何としても救おうといういのちが満ちている。 だから、どんなに細い枝であっても、ちぎれさえしなければ、つながってさえいれば、いのちの花を咲かせることができるのです。
主イエスは、桜の木ならぬ、ぶどうの木。 それも、「まことの」の。 真実の、本当の。情況がどう変わろうとも、何があっても、変わらない、ぶどうの木です。
その幹につながってさえいれば、枝は、花をさかせ、その先には身を着けることが出来ると、主イエスは言ってくださいました。
どんな実がなるのか。 今の段階ではそれはわかりません。しかし、つながってさえいれば、必ず、花が咲き、実がなると、主ご自身が約束して下さっています。枝自身としてはオッぼつかなく思え、自信のない所でありますが、しかし、すべてをご存知の主イエスがしてくださる約束の方が、ずっと信ずるに足ります。
もう50年くらいお付き合いのある、一人の女性がいます。この方は軽い知的障害を負う、養護学校の卒業生で、卒業後、20歳の時に洗礼を受けました。ずっと、グループホームに暮らしてきました。それが、数年前に、或るきっかけがあって、自立し、今は独り暮らしをしています。もう還暦間際ですが、独り暮らしが寂しいこともあって、毎日電話が来ます。その日に在った出来事、心に在ることなど話して下さり、最後は決まり文句で締めます。「神様つながり。教会つながりって、有難いですね」と。 私たちの造語ですが、いい言葉だなあと、思っています。
つながってさえいれば、幹からのいのちは、変わらず、確かに伝わり、その枝に鼻も実もつけてくださる。 この約束に実を委ねて、この週を歩みましょう。